
4月9日(水)
安倍総理の積極的平和主義は、積極的戦争主義である。
武器を海外に売らない国から、武器を世界へ売る国へ。
集団的自衛権の行使を認めない国から集団的自衛権の行使を認める国へ。つまり、戦争をしない国から、戦争をする国へ。
平和とは、戦争である。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に登場する民衆支配のための官庁「真理省」の壁面に刻まれたスローガン。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
昔、この「1984年」を読んだときに、戦争は平和なりにショックを受けた。
今、まさに平和とは戦争である。
ポーランドのアウシュビッツを訪れたときに、アウシュビッツの門のところに、「労働は人を自由にする」と言う文言が掲げられていた。
労働の自由も、いや全ての自由も、実に沢山の人々の生存すら奪われていったアウシュビッツの中で、「労働は人を自由にする」。
こんなに皮肉で、真逆の言葉はない。
それと同じように、戦争とは平和である、平和とは戦争である。
積極的平和主義のために、集団的自衛権の行使を認めると安倍総理は言う。
こんなに真逆のことがあるだろうか。
平和主義と言うのであれば、集団的自衛権の行使を解釈であれ、明文であれ認めることはできない。
武力行使をするという事は、戦争をすることだ。
集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されてないにもかかわらず、他国防衛のために戦争をすることだ。
国連発足後、集団的自衛権の行使が援用されたのは14件。ソ連のチェコ侵攻、ハンガリー侵攻、アフガン侵攻、アメリカのベトナム戦争、ニカラグア侵攻など、大国が、他国を侵略した戦争がほとんどである。
汚染水は完全にコントロールされているということは、汚染水が漏れ続けているということである。
世界でいちばん安全な原発を輸出するということは、原発事故を起こした日本の原発を世界に輸出するということである。
武器輸出三原則を投げ捨てることを、防衛装備移転と言葉を変える。
女性の活用を言いながら、労働者派遣法を改悪をして、派遣労働者を増やし、女性の貧困を拡大をしていく。
女性の活用とは、ほんの一部の女性を抜擢し、大多数の女性を使い捨てるということである。
失業なき労働移動とは、解雇して、大量の失業者を作るということである。
棚田など美しい日本を守るということは、TPPに参加して、農業、地域を破壊するということである。
日本の文化伝統と言いながら、TPPに参加して、国民皆保険や日本の良いところを破壊しようと言うことである。
国を愛する気概と言いながら、アメリカに追従をして、世界で戦争をしようとする。
言葉が、本来の意味と逆の意味で使われている。
「労働は人を自由にする」
美辞麗句は、国民にとって極めて残酷なことを 意味している。
安倍総理は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配という価値観を共有する国々と連携をすると言う。
しかし、秘密保護法を強行採決で成立させ、集団的自衛権の行使を解釈改憲で認めることは、自由、民主主義、基本的人権、法の支配を踏みにじるものである。
自らが、自由、民主主義、基本的人権、法の支配を踏みにじりながら、価値観を共有する国々と連携をするということはどういうことか。
価値観を共有などしていない。
戦後日本は、武器を世界に売らない、世界で戦争しないという国であった。国民はそのことを選択し、政府はそのことを実現をしてきた。
日本は、その点で素晴らしい国だと心から思う。
世界の先進国のほとんどが、武器を世界に売り、戦争を助長し、金儲けをしてきた。
日本製の武器が、世界の子どもたちを殺してこなかったということは、まさに日本の貴重な財産である。
戦後、日本の自衛隊が、世界の人々を殺さず、殺されなかった。これも日本の貴重な財産である。
誇るべき財産であり、世界の人々の日本への信頼、信用となってきた。
戦争は、戦争であり、平和は、平和である。
積極的平和主義と言うのであれば、日本国憲法のもとで、世界で武力行使をしない、そのことを堅持し、生かしていくべきである。
第二次世界大戦が終わった時、宗教界は、戦争に協力した過去を反省し、マスコミは、二度と戦争のためにペンを取らないと誓い、先生たちは、教え子を戦場に送るなと決意し、頑張ってきた。
戦争しない国から、戦争をする国へ。
二度と戦争をしないという戦後の出発点を今まさに確認し、心に刻み、実行する時である。今でしょと言いたい。
安倍総理の積極的平和主義は、積極的戦争主義である。
武器を海外に売らない国から、武器を世界へ売る国へ。
集団的自衛権の行使を認めない国から集団的自衛権の行使を認める国へ。つまり、戦争をしない国から、戦争をする国へ。
平和とは、戦争である。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に登場する民衆支配のための官庁「真理省」の壁面に刻まれたスローガン。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
昔、この「1984年」を読んだときに、戦争は平和なりにショックを受けた。
今、まさに平和とは戦争である。
ポーランドのアウシュビッツを訪れたときに、アウシュビッツの門のところに、「労働は人を自由にする」と言う文言が掲げられていた。
労働の自由も、いや全ての自由も、実に沢山の人々の生存すら奪われていったアウシュビッツの中で、「労働は人を自由にする」。
こんなに皮肉で、真逆の言葉はない。
それと同じように、戦争とは平和である、平和とは戦争である。
積極的平和主義のために、集団的自衛権の行使を認めると安倍総理は言う。
こんなに真逆のことがあるだろうか。
平和主義と言うのであれば、集団的自衛権の行使を解釈であれ、明文であれ認めることはできない。
武力行使をするという事は、戦争をすることだ。
集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されてないにもかかわらず、他国防衛のために戦争をすることだ。
国連発足後、集団的自衛権の行使が援用されたのは14件。ソ連のチェコ侵攻、ハンガリー侵攻、アフガン侵攻、アメリカのベトナム戦争、ニカラグア侵攻など、大国が、他国を侵略した戦争がほとんどである。
汚染水は完全にコントロールされているということは、汚染水が漏れ続けているということである。
世界でいちばん安全な原発を輸出するということは、原発事故を起こした日本の原発を世界に輸出するということである。
武器輸出三原則を投げ捨てることを、防衛装備移転と言葉を変える。
女性の活用を言いながら、労働者派遣法を改悪をして、派遣労働者を増やし、女性の貧困を拡大をしていく。
女性の活用とは、ほんの一部の女性を抜擢し、大多数の女性を使い捨てるということである。
失業なき労働移動とは、解雇して、大量の失業者を作るということである。
棚田など美しい日本を守るということは、TPPに参加して、農業、地域を破壊するということである。
日本の文化伝統と言いながら、TPPに参加して、国民皆保険や日本の良いところを破壊しようと言うことである。
国を愛する気概と言いながら、アメリカに追従をして、世界で戦争をしようとする。
言葉が、本来の意味と逆の意味で使われている。
「労働は人を自由にする」
美辞麗句は、国民にとって極めて残酷なことを 意味している。
安倍総理は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配という価値観を共有する国々と連携をすると言う。
しかし、秘密保護法を強行採決で成立させ、集団的自衛権の行使を解釈改憲で認めることは、自由、民主主義、基本的人権、法の支配を踏みにじるものである。
自らが、自由、民主主義、基本的人権、法の支配を踏みにじりながら、価値観を共有する国々と連携をするということはどういうことか。
価値観を共有などしていない。
戦後日本は、武器を世界に売らない、世界で戦争しないという国であった。国民はそのことを選択し、政府はそのことを実現をしてきた。
日本は、その点で素晴らしい国だと心から思う。
世界の先進国のほとんどが、武器を世界に売り、戦争を助長し、金儲けをしてきた。
日本製の武器が、世界の子どもたちを殺してこなかったということは、まさに日本の貴重な財産である。
戦後、日本の自衛隊が、世界の人々を殺さず、殺されなかった。これも日本の貴重な財産である。
誇るべき財産であり、世界の人々の日本への信頼、信用となってきた。
戦争は、戦争であり、平和は、平和である。
積極的平和主義と言うのであれば、日本国憲法のもとで、世界で武力行使をしない、そのことを堅持し、生かしていくべきである。
第二次世界大戦が終わった時、宗教界は、戦争に協力した過去を反省し、マスコミは、二度と戦争のためにペンを取らないと誓い、先生たちは、教え子を戦場に送るなと決意し、頑張ってきた。
戦争しない国から、戦争をする国へ。
二度と戦争をしないという戦後の出発点を今まさに確認し、心に刻み、実行する時である。今でしょと言いたい。
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