福島みずほのどきどき日記

「100万回生きたねこ」を読んで

「100万回生きたねこ」佐野洋子著

最近、初めて佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」を読んだ。
びっくりして、ずーと考え続けている。
生きること、死ぬこと、命、自分、他者のことである。
100万回、生きた猫がいた。100万年生き、100万人の人に飼われた。王様、船乗り、サーカス、泥棒、子ども、高齢者などに飼われていた。しかし、その猫は飼ってくれていた人たちなどが嫌いだった。猫は死んで、飼ってくれていた人が、泣いても、その猫は泣かなかった。
自分のことだけ好きだった。野良猫になって、白い猫を好きになって、子どもが生まれる。
白い猫が死んでしまって、100万回生きた猫は、100万回泣いて、死んでしまいました。
うーん。
ボーボワールの本に、「人はすべて死す」(岩波書店刊)というものがある。上下巻である。大学生のときに読んだ。
実存主義をストーリーにしたもの。永遠の命を持った男の物語である。永遠に死なない。周りの人たちが、愛する人たちが亡くなっても彼は死ねない。段々彼は生きる屍となっていく。
人は死ね。命は有限である。だららこそ自由があるのだということである。
この本を「100万回生きたねこ」を読んで思い出した。
死ぬのは嫌だ。永遠に生きたい。しかし、そのことはどういう意味を持つのか。
ねこはなぜ今まで死ななかったのか。生きていなかったからではないか。自分のことしか好きではなく、誰も愛さなかった。誰も愛さなかったから、未練も、何の感情もなく、悲しくもない。関係ない。
ねこは、生まれて初めて自分以外のものを愛した、白い猫であり、子どもたちだ。
生きたのだ。生まれて初めて生きたのである。自分以外のものを愛するということが生きること。
初めてこの世で、関係性ができた。思いが初めて誕生したのである。
初めて生きたので、初めて死んだのではないか。生きていなかったので、死ななかったのである。
生きるとはなにか。自分以外の愛するものと生きること。愛すること。
命は有限だが、だからこそ生きる価値がある。
佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」という本を読んだことがある。
死ぬことが、悲惨で、何がなんでも避けることという扱いではなかった。「100万回生きたねこ」に通ずるものがあるのではないか。
死ぬのは嫌だ。永遠に生きていきたい。でも死ぬからこそ生きていることが光り輝く。
より良く生きていきたいと強く思う。
繰り返し、繰り返しこの絵本の中身を考えている。
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「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を 見て

ネタバレしているので、映画を見てから読んでください。

「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を 見て。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の映画を見たとき、2011年3月11日の東日本大震災、東電福島原発事故を経て、このような映画ができたのだという感慨を持った。
重い大変な体験を経て、このような映画が誕生したのだという感慨である。命を救いたいということである。命を救うために何でもしようということである。原発事故などたくさんだということである。
「シン・ゴジラ」で、ゴジラが動くときに、放射性物質が出て、これについて、赤、黄色などの放射性物質の色分けの地図が出る。これはまさに東電原発事故のときに見たものである。
東電福島原発に、「キリン」と呼ばれる首の長い重機で、海水を注入し続けることがあった。見ながら、ああ、何とかして、原発を静めてくれと思った。
ゴジラに、「キリン」のような重機で、凝固剤を注入し続ける。人間が作り出した放射性物質に人間たちが復讐される。それを何とか食い止めたい。命を救いたい。

「君の名は。」では、東京の高校生と岐阜県の女の子の意識が時々入れ替わる。
何のために。時空を超えて、時間軸を歪めても、命を救おうと努力する。村に突然災害が起きることを何とか食い止めたい。
意識が入れ替わっている相手を含めて、多くの人を救いたい。そのためには何でもするということである。
豊かな自然。豊かな当たり前の生活。村のお祭り。それが根こそぎ奪われるのが、災害であり、原発事故である。
津波や震災、原発震災を繰り返し思い出す。未来をわたしたちはどう作るのか。
命以上に大事なものはない。自分の命も大事だが、自分の愛する人々、そして、すべての人々の命が大事。
あまりに苛酷な体験を経験したわたしたちは、脱原発、災害防止、災害被害をなくすということに全力をあげるべきではないか。ゴジラは、建物を壊し、街を壊し、人々の生活と命を奪うが、ゴジラこそ人間が作ったものである。
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「ハンナ・アーレント」

 ハンナ・アーレントの映画を見ました。ハンナ・アーレントは全体主義の起源などの本を書いているアメリカの偉大な女性哲学者です。彼女はハイデッガーの愛弟子であり、そしてフランスの収容所で過ごし、そこから夫と共にアメリカに亡命をしたユダヤ人です。
 
 アイヒマンが亡命先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関によって逮捕され、イスラエルで裁判が行われた際、ハンナ・アーレントは傍聴を希望して、雑誌『ニューヨーカー』に傍聴記を書きました。ハンナ・アーレントが書いたもので2つの点がみんなのセンセーションを引き起こします。
 
 第一番目は悪の権化のようなアイヒマンについて「凡庸な悪」と言ったことです。みな、彼女がアイヒマンを罵倒することを期待していました。しかし凡庸な悪と言ったことで皆が失望したのです。しかし凡庸な悪そのものではないか。ハンナは大学で講義をします、人間が思考停止をすることそのことに問題が、と。人が正義感や使命感やある意図を持って行動するのではなく、言いなりになり、ものを考えず、思考停止をすることにこそ問題の本質があると言ったのです。その通りではないでしょうか。とりわけ日本の官僚制度や日本の政治状況、メディアの状況も含めて人々が思考停止をし、意思を持たずに言いなりになって流されていく、そういったことを凡庸な悪と言ったのではないかと思います。日本の今の政治状況の中で凡庸な悪に私たちが流されていっている、負けている、そのことを私自身痛感しています。
 
 第二番目に彼女が攻撃されたのが、ユダヤ人の中にナチスドイツに協力したリーダーたちがいたということを裁判の過程で知り、そのことを書いたことです。ユダヤの人々は、彼女がユダヤ人を裁くナチスドイツと同じ立場で見下しているとひどく傷つき、批判をします。このことをどう思われますか。私はこの映画を見た直後は、ハンナのこの第二の指摘について正しいのかどうか疑問に思いました。よく差別がないと言う人たちは、被害者の側で協力した人間がいる、戦後補償の中で朝鮮の人たちがむしろ日本に協力をしたのだ、女の敵は女だ、むしろ女性がそれを望んでいるといった言説を多用します。だから被害者の側に協力した人間がいるということが、むしろ加害被害を見えなくする、差別など存在しない、被害者の側がほんとに被害者なのか、そんな誤った言説を跳梁跋扈させるような気が私はしてきました。
 
 ですからハンナの第一の指摘は鋭い、しかし第二の指摘は若干疑問というふうに思いました。ただ今は考えが違います、ハンナが真実をきちっと語りたかったのであると。単純化した被害加害ではなく、何が起きたのか、実は何なのか、そこから私たちは何を学ぶべきなのか、自分が抑留され、強制収容所に送られて殺されたかもしれないハンナ自身が歴史をきちっと分析し、繰り返し何が起きたか歴史に刻むべきだという事実を直視する立場から、第2番目の指摘も行ったのだと思います。今考えれば第1番目の指摘も第2番目の指摘も実際起こり得ることなのですから、それを指摘したハンナは正しいと思います。
 
 ハンナはこの論文を書いたことですさまじいバッシングを受けます。人々は受け入れ難かったのです。しかし、全体主義がなぜ起きるのか、そのことを指摘しようとしたハンナの真摯さは、この映画の中で一番光っていることです。思考する哲学者ハンナの真摯さと、思考停止をしてはならない、人間は考え続けるべきだという姿勢は、この映画の中で私たちをほんとうに励ましてくれます。全体主義は、人々が思考しなくなることによって起きる、そのことを今日本でこそいちばん受け止めるべきではないでしょうか。岩波ホールは、満席でした。人々が今の日本の政治状況に危機感を持ち、この映画を見に来た人がいるということを感じました。
 
 ところでハンナはこの映画の中で実によくタバコを吸います。実際のハンナもヘビースモーカーだったと言われております。タバコを吸うことは全くの嗜好、好みの問題です。ただ男社会の中でストレスを感じ、そこで生き抜いてきたハンナが、タバコを吸うような気もしてきました。ハンナはやはりかっこいいというふうにこの映画を見て思ったんですね。迫害をされたり、大学を辞めろと言われたり、バッシングを受けたり、電話や手紙が山のように来ても彼女は考え続け、そして、議論することをやめません。大学の授業の中で学生たちに全体主義のことを自分がどう考えているかを迫力を持ってきちっと語り合う場面、そして学生たちが拍手をする場面は圧巻です。この映画の中であるユダヤ人が、「君はユダヤ人をナチスドイツのように見下している。サヨナラだ。」と言う場面では心が痛みました。その通りだというわけではないけれども、そう言いたくなる気持ちも実は理解ができるからです。しかし客観的に見てハンナ・アーレントの指摘は正しいのだ、そう思います。私たちは実はいろんなところで思考停止になってしまっているし、思考停止になってしまうかもしれない、人は実は何も考えずにそして様々なことに加担してしまうかもしれない、その危険性を彼女はとても言っている、そう思います。
 
 タバコのことも言いましたけれども、ココ・シャネルの映画を見てもココ・シャネルやハンナがとてつもないヘビースモーカーであることに、ある種とても印象的な思いがします。男社会の中で数少ない女性として頑張るすべは、このタバコにある意味象徴されているような気がしています。この映画を見て男女関係も面白いと思いました。ハンナは、若いとき、恩師であるハイデッガーの恋人となります。ハイデッガーは、ナチスドイツ時代にナチスドイツに協力をします。またハンナと夫はとても仲が良いほんとにラブラブのカップル夫婦なのですが、どう見ても夫にはシャルロットという恋人がいるように思います。ハンナのほうも信頼関係を持つ男友達が何人もいます。その辺りのドロドロしない男女関係も新鮮というか不思議な感じがしました。ハンナが恩師であるハイデッガーに会うシーンは意外な感じがしました。私であれば、裏切り者であるハイデッガーの顔など見たくないと思うのではないかと考えるからです。収容所に入れられたハンナが、ナチスに協力をしたハイデッカーに会って急に話をするというのが、何かほんとに意外な気がしました。

 何はともあれハンナの強さに心を打たれました。
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「少年H」

 ベストセラーになった妹尾河童さんの「少年H」の映画化。素晴らしい映画だった。

 面白い映画だった。戦争は、本当に本当に嫌だ。絶対に起こしてはならない」と、ひたすら思った。

 この映画は、少年H(はじめ君。母がセーターにHと刺しゅうしたので「H]と呼ばれている)の眼を通して戦争が描かれている。神戸に住む一家の物語。

 Hの父親、盛夫さん(水谷豊)は、紳士服の仕立屋さんで、居留地に住む外国人を相手に商売をしている。リベラルで優しい人。両親ともクリスチャンで教会に通う。お世話になった宣教師の女性が、アメリカに帰ってHに絵ハガキを送ってくれる。その絵ハガキをHが友人の一人に見せたら、そのことが広がって、「アメリカと内通しているのではないか」という疑いで盛夫さんは、警察に呼ばれ拷問を受ける。向かいのうどん屋のお兄ちゃんは、思想犯として捕まってしまう。そんな社会状況になっていく。

 Hは、中学校に入学するが、毎日軍事教練の日々。ついに、神戸が空襲にあう。すさまじい焼け野原。炭のように焼けてしまった人々の死体。一人、家族をさがして歩く盛夫さんの姿が、戦争とは何かを雄弁に語っている。

 私は、集団的自衛権の行使を認めようとする政治家たちに、この映画を見て欲しいと思った。そして、戦争を知っている人、知らない人、こどもたちに見て欲しいと思った。

 少年Hは、のびのびした家庭で育ったので、「なぜ?」「どうして?」「それはおかしい」と言える子だ。学校で、すぐそうして教官に生意気だと殴られたりする。生き生きのびのびした、イガクリ頭の少年の眼を通じて、戦争に突入する日常が描かれているので、新鮮な映画だ。

 ここでは、ジェンダーという視点から、父親像盛夫さんについて書きたい。

 盛夫さんは、様々な国の外国人と接しているので、開明的でリベラルな人である。私は戦前にこんなにソフトで優しいお父さんがいたのかと感動した。権威主義ではなく、上から目線ではなく、子どもの心にしっかり対等に向き合っている。威張らない父親像はいいな。

 盛夫さんは、自分の考えや信念を持っている。それは、妻の敏子さんもそうである。

 二人ともバリバリのクリスチャン。当時の風潮に大きな違和感を持っている家族である。そして、正直にきちんと子どもに伝えようとする。少年Hに、「日本はこれからどうなるのか?」と聞かれた父親はこう答える。「それは、お父ちゃんにもわからない」と。

 Hがアメリカからの絵ハガキを見せたのは級友一人だけ。Hも「スパイ」と呼ばれ、盛夫さんが拷問を受けるのは、その絵ハガキが原因だ。他愛もない絵ハガキでスパイ容疑がかかるのが、まさに戦争中の人権侵害だ。Hは、その友だちにちゃんと抗議しようとする。私ならぶん殴りたいくらいだ。しかし、盛夫さんはHに言う。「絵ハガキを見せたのは、自分の判断だろう」「いっちゃんも辛いのではないか」と。

 Hは、ふさぎ込んで自分を責めているいっちゃんと仲直りする。こんな事が言えるなんて、すごい。私は怒りや恨み爆発となるだろう。盛夫さんは、自ら消防隊に入り、クリスチャンとしてまわりから浮いている妻に「班長になったらいい」とアドバイスをする。自分たちの考えを守りながら、周囲と折り合いをつけ、まわりからあまり浮かないようにとも、心を砕く。マッチョな父親とは、全く違うやり方で、心を砕いて家族を守ろうとする。対等にきちんと話して、「こうしたらどうだろう」って。

 こんな父親、実は日本に不思議とたくさんいたのかもしれない。田辺聖子さんの父親も近いかも。しかし、戦前の小説や映画であまり見たことがないので、私は嬉しく見ていたのであった。時代は変わり、本当に小さな子どもとも対等に向き合えるステキな父親も増えているけれど、まだまだ少ないかも。

 これも家族を守ろうとする大人である。水谷豊さんがステキなのかもしれないが、伊藤蘭さんもおかあさん役でいい味を出している。かつてのアイドル、小泉今日子さん、薬師丸ひろ子さん、伊藤蘭さんもステキに年を重ねている。

 日本映画のなかで演じられた父親のなかで、庶民の盛夫さんは、本当にステキだ。
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「ある精肉店の話」

 「ある精肉店の話」と言う映画を見ました。
 「祝の島」に続く纐纈あや監督作品第2弾です。
 とってもいい映画でした。いのちを食べていのちを生きるとチケットに書いてあります。
 
 私は大学生の時に、大きな食肉センターを訪れたことがあります。
 今回、その時のことをとても思い出しました。
 7代続く精肉店。牛を飼い、牛を解体し、その肉を売る、そのことを家業として家族で力を合わせてやってきた1つの家族の物語です。
 
 女友達と一緒に映画を見に行ったら、彼女は肉を食べることができない人なので、映画をみて大丈夫だろうかとそう言いました。でも彼女もしっかり映画を観てきました。
 私は実は、とてもお腹が空いている状態でこの映画を見たので、この映画を見たあとお肉が食べたくなりました。
 それくらい、私たちが命をもらい、命を食べるいう事をとても実感するそんな素晴らしい映画でした。
 私は多くの子どもたちにこの映画を観てもらいたいと思いました。
 私たちは、命をもらい、命を食べる。多くの人たちの手が入って、そして肉を食べる。そのことに心から感謝をしたい。
 
 この映画を見なければ、肉や魚はスーパーの切り身でしかなかったのかもしれません。
 切身としてしか感じないのではなく、 生き物を私たちは食べるのだということを考えることができる素晴らしい映画でした。
 牛を解体することは、凄まじい力仕事でした。真剣に命に向き合い、真剣に仕事をすることなくしてそのことを実現をすることはできません。そして、肉だけではなく、内臓、皮も含めて全てのものを有効活用していく作業が続きます。

 そして、この家族が力を合わせていくことが素晴らしいことです。

 牛の解体、肉を売る仕事をしていくために、みんなが力を合わせていかなければなりません。
 小さい時から、親を助け、親と一緒に作業していくことが描かれています。おばあちゃんが居間にいて、その居間には、犬がいます。犬は家族をじっと見ていて、とてもおとなしくしつけられています。何代もの家族が力を合わせてやっていくことが淡々と温かくこの映画で描かれています。

 私はいわゆる長男の生きかた、たたずまいがとても印象的でした。お父さんを見て育って、お父さんのことを理解し、後をついでいく。妹や弟や妻と力を合わせて、家業を営んでいく。その不思議な佇まいに覚悟や決心というものを見ました。人権教育などで話をしています。優しくて、淡々としていて、真剣です。

 次に、部落差別のことを改めて考えました。

 私は狭山差別裁判の弁護人の1人をしています。今でも東京高等裁判所に、証拠開示の交渉に行ったりしています。

 裁判のなかで、学んだことがたくさんあります。

 この映画を見ながら狭山裁判のことを考えていました。この映画の中で、お父さんは、事を書いたり、読んだりすることができません。それは学校の中で差別を受けて、学校に行かなくなったからです。狭山裁判の石川さんも、長いこと字がうまく書けませんでした。そのことをこの映画を見ながら考えていました。

 この映画の中でも狭山裁判の集会に行くことなどが描かれています。人権教育と言うと堅苦しくなるかもしれませんが、まさにこの映画が1つの人権教育なのではないか。

 私はこの映画を見ながら改めて水平社宣言を考えていました。この映画の中でももちろん水平社宣言が取り上げられます。なぜ、自分たちが差別をされなければならないのか。差別を受けてきた自分たちが、誇りを持って生きる時が来たのだという水平社宣言のそのエッセンスはこの映画の中で淡々と素晴らしく描かれているように思います。

 もちろんこの映画は堅苦しい映画ではありません。 1つの家族の生き生きとした日々が、生き生きとした仕事が、お祭りをしたり、太鼓を作ったりする様々な日々が描かれています。そして、その日々の中に、一人ひとりの仕事への思い、家族への思い、社会への思いなどが描かれています。私は、その意味でもこの映画を1人でも多く、とりわけ1人でも多くの子どもたちに見てほしいと思いました。
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「ユーミンの罪」(酒井順子著)を読んで

「ユーミンの罪」(酒井順子著、講談社現代新書)を読みました。表紙に「ユーミンの歌とは女の業の肯定である。ユーミンと共に駆け抜けた1973年~バブル崩壊」というコピーが付いています。ユーミンは1954年生まれ。私は20代をほぼユーミンの歌と共に過ごしました。テープやCDで聴いたり、家の中で、ユーミンの歌を流しっぱなしにして、勉強したり、読書をしたり、仕事をしたり、家事をしたりしてきました。ユーミンの歌を聴くと、ポジティブに肯定的に元気になる。人生なんとか前向きに生きていける、とてつもなく人生前向きに生きていける気になる歌でした。ユーミンの歌が大好きだったんですが、酒井順子さんの本を読んで、ユーミンの凄さ、そしてそれをとてつもなくうまく料理して分析をする酒井順子さんの腕前にうなりました。2人に感謝と言う感じです。
 私の友人に中島みゆきさんのファンがいました。中島みゆき派と荒井由美派に二分されていたのかもしれません。中島みゆきさんのテープやCDも聴きました。今聴いても「時代」という曲など素晴らしい曲です。中島さんの歌からも励まされたけれども、ユーミンの歌によって肯定的に、軽く、前向きにやってやるぞという雰囲気で若い時を過ごすことができたことはとても良かったです。
 宮崎駿監督はユーミンの曲をたくさん使っています。その理由はとてもわかります。宮崎駿監督が描く少女たちはとても前向きで、そして健気です。ものすごく屈折をしたり傷んでいたりしていません。トトロの2人の女の子にしても、ナウシカの深さや孤独はもちろんあるけれども、「耳をすませば」にしても「魔女の宅急便」にしても、ある種の女の子の成長物語です。女の子が生き生きと前向きに、そして人生をつかもうとして健気に、考え考え生きていく。そんなことを宮崎駿監督が描いています。おそらく宮崎駿監督がそんな女の子達が大好きだったんでしょう。私たち女の子が「赤毛のアン」や「あしながおじさん」といった、女の子のある種の成長物語によって成長してきた、応援をしてきてもらってきたように、「女の子の成長物語」で、励まされて成長していく。女の子が前向きに生きていく、それこそがユーミンの歌だったという気がしています。ユーミンの曲で例えば「小さい時は神様がいていつでも夢を叶えてくれた」という歌詞があります。また「誰かやさしく肩を抱いてくれたら、どこまでも遠く歩いて行けそうよ」という歌詞もある。どこまでも、どこまでも、どこまでも遠く歩いていける、そして子ども時代は恵まれていて、幸せだった、そう言い切れる女の子たちの話です。アダルトチルドレンや辛かったっていう話ではもちろんないんですね。ですから、ここがユーミンが受けたということではないか、こんなに女の子をカラリと肯定してくれた歌はないんじゃないかと思っています。
 しかしユーミンの歌は単に肯定的、前向き、明るいというだけではありません。「真珠のピアス」では嫉妬を扱っているし、それから元彼に会うときの話、それからふられたという話などもたくさん出てきています。楽しみや苦みや辛さや嫉妬やそういうものも描きながら、でも、逆にそういう歌に多くの女性たちは励まされてきたと思います。酒井順子さんの分析は本当に素晴らしくて、ユーミンの二面性つまりかっこよくてスタイルが良くて、素晴らしくて、外の革新性、それから中の保守性というものを分析しています。一瞬一瞬刹那的にあるいは一瞬一瞬を全力で生きながら、もう一方で永遠を探せ、永遠に生きていく、「リーインカーネーション」などでもそうだけれども、永遠の中で生きていくんだという宇宙サイズで物事を考えるという面も出てきています。ですから、その両義性が非常にある。
 酒井さんは20項目立てています。「開けられたパンドラの箱」「ダサイから泣かない」「女性の自立と助手席と」「恋愛と自己愛の間」「除湿機能とポップ」「“連れてって文化”隆盛へ」「ブスと嫉妬の調理法」「時を超越したい」「恋愛格差と上から目線」「欲しいものは奪い取れ」というものなどです。「結婚という最終目的」っていうものもあります。私が今回うなったのは、酒井順子さんの分析です。「女性の自立と助手席と」って言うところも素晴らしくて、確かに「中央フリーウェイ」にしても助手席の女と分析をされています。確かに、男性がいて、そこの助手席に座っている、つまり誰かに属している。誰かがいて、自分がいる。女性の自立を歌いながら決して何者にも属さないという女の人生ではないのですね。スキー場に行っても、スキーをしている彼を見ている。「ノーサイド」の曲も、ラグビーをしている彼を見ている。つまり、自分がやるのではなく、彼を見ているっていう歌。これを助手席の女というように酒井順子さんは分析をしています。なるほどです。助手席の女ではなくて自分がやるのだというように、 10代から思っていた私はそこは少し合わなかったところかもしれないんですが、でも揺れる女の子たち、女性の自立と助手席と両方欲しいという感じも上手く描いています。それから「“連れてって文化”隆盛」という章も面白いです。「私をスキーに連れてって」という大ヒットした映画とこの助手席の女とシンクロするところです。ひとりで勝手に女の子がゲレンデに行くのではなく、私をスキーに連れてってくれる彼がいるっていうことなわけで、この辺も自分もやるんだけれども、でも女性の自立とそれから連れてってと両方うまくできてるなという気がしています。私はカラオケで「赤いスイートピー」をよく歌うのですが、「あなたについて行きたい」、女の子がちゃんと私を口説いてよーって気弱な男の子に思っているんだけれども、でも、私はあなた連れて行きたいと歌う。それは演歌的な「ついて行きます」ではなくって、羽の生えたブーツで飛んで行くっていうわけだから、そこはポップで、軽くて、また力強いところもある。そういう二面性を酒井順子さんはとても上手く描いています。
 それから、分析で面白いと思ったのは、ユーミンの曲に元彼というのがたくさん登場するということなんです。確かにそうです。元彼と会うあるいはばったり元彼と会ってしまってたというシュチエーションはとっても多いです。これを酒井順子さんは、ちょうどこの時期、女性たちは処女で結婚しなければならないということが、女子学生が急速に増えていく中で、大学の進学率が急増する中で、壊れていったということと結びつけて分析しています。結婚するまで処女でなければならない、処女を捧げた相手と結婚しなければならないっていうのが急速に変わっていった時代と位置づけています。これはほんとにそうです。大学時代、仲の良い女友達とこの処女性と結婚ということについて話し合ったことが何回かあります。結婚するまでは処女でなくっちゃっていうのは違うのではというのが、割とその時の共通見解でした。処女膜があるのは、人間の女性とモグラだけなのだから、そんなことを問題にするのはおかしいと言う人もいたぐらいです。その中である友達がこう言いました。「喧嘩になると父親が母親に向かって、結婚したときに処女でなかったということを言う。夫婦喧嘩が始まるとそのことを必ず言う。そういうのは嫌だった。」と。まだまだ男の子たちの中にそういう気持ちもあるのかなあとか、そういう古い男の人もいるんだよね、という話をしたことがあります。
 当時は「女の体」あるいは中山千夏さんの「恋あいうえお」とか女性の体の本が出ていました。私も読んで、自分の体は自分のものとかそれから結婚ってなんだろうっていうことを考えたりしていました。でもユーミンの曲は確かに酒井順子さんが分析するとおり、元彼というのが出てくるということは、もう処女性は問題ではないのです。例えば「チャイニーズスープ」という有名な曲があります。「豆は別れた男たち」っていうフレーズがあります。この、男たちっていうくらいだから、1人でなく何人か元彼がいて、恋愛をしてきたということがわかります。それは、決して、なんか嫌な感じとか蓮っ葉な感じとか、何か汚れたイメージではなく、また元彼に対して、いつも思いを何か持ちながらも、演歌的なドロドロして別れた男に未練たっぷりという歌では決してない。ユーミンが描いた歌でやっぱり女の子たちの意識も変わっていたんじゃないか。それから下町の男の子と山手の女の子の恋愛を描いている曲がある。これ酒井さんは「恋愛格差と上から目線」ということで書いています。これもなるほどです。
 それから、「女に好かれる女」という章があります。私はユーミンは女に好かれる女っていうことだと思います。いま女子会が本当に流行ってるけれども、昔から女の人が彼氏ができたら女友達の中では、あけすけにいろんなことを語りながら戦略を立てたり、悩み相談をしたり、アドバイスをしたり、失恋をしたらとてつもなく慰めてもらうという形でやってきたという気がしています。そんな女の友情も描いているというのが面白いというか、わかるわかると言う感じです。男性たちの友情は仕事があろうが、恋愛をしようが強固な形で続いていく。それに対して、女性の友情は、一旦彼氏ができたら、女の友情はひとまず少しお休みとして、失恋をしたり、別のステージに行くと、それはまた女性の友情が復活する。つまり、融通無碍で、ネットワークが生きたり、また続いたりする。女の楽屋裏的にそれが続くという分析も何かその通りだ、と思っています。友情は続いていく、拘束する友情というよりも付かず離れず友情があってそして、男性との関係は表舞台で、女性との関係は楽屋裏で女の楽屋裏でいろんな情報交換しながら、楽屋裏で言いたい放題言いながらストレス解消していく。そんな女性たちの友情などもユーミン描いていることを酒井順子さんはうまく分析をしています。それと酒井さんは、今と随分違うのは、欲しいものは奪い取れとユーミンは言っている。これは進軍ラッパで、愛は奪い取れ、前に進めと言っている。松田聖子さんが人気を博して一世を風靡しました。 それは彼女のグリップ力、彼女の掴み取る力、彼女もとにかく欲しいものは手にする。それをお洒落に軽くしているのがユーミンの世界だと思います。ユーミンと松田聖子さんの世界は違うものだけれども、共通部分がある。欲しいものは奪い取れ、欲しいものは手にする、私は欲しいものはあきらめない、そして欲しいものを手にすることに何の躊躇がいるものか。欲しいものを欲しいと言って何が問題ということが共通項です。2人は違う形で、松田聖子さんはアグレッシブに、そしてユーミンのほうはとてつもなくお洒落に表現をしているのではないでしょうか。「ユーミンが私たちに残した甘い傷痕とは?キラキラと輝いたあの時代、世の中に与えた影響を検証する」と本の表紙にあります。ユーミンの歌は単に明るいだけではなく傷痕も悲しいことも痛みもなくした恋の痛みもそして、いろんなことが一瞬一瞬で消えていくことも、描いています。「ダサイから泣かない」というのも本当にそうだと思います。ドルフィンで思いっきり泣けたら2人はまた一緒にいることができたのにというフレーズがある。つまり男から別れ話を出された時に泣いてしまえば関係は続いたかもしれない。しかし、なぜ泣かなかったかと言えば、それはダサイからと言う酒井順子さんの分析はほんとに当たっていると思っています。泣いて男を引き止めて関係を維持し結婚にこぎつける、そんな女性たちもいたかもしれません。私はそれはそれでいいって思います。そうしたいんだからそうすればいいと。しかし、ダサイから泣かないという分析は面白い。実は、私もあまり泣かない人です。いつも泣いたって仕方ないというか、泣いて問題が好転すれば泣くのだけれども、泣いてる場合じゃないし、泣いても仕方がないと思うから泣きません。しかし、このダサイから泣かないっていうのは、あのユーミンの美意識、それから女性たちのある種の美意識っていうものをとても表しています。でも、この本の分析で、繰り返しますが、外は革新、中は保守、助手席の女とは、自分で自立してやろうとしているがどこかに所属している女の人を表しているっていうのはそれはその通りではないかと思っています。でも新しい恋愛のあり方、彼と遊びに行くことの楽しさ、でも自分で生きることの楽しさ、失恋をすれば自分なりにそれを癒していくこと、そして過去を恨むのではなくいいこともあったと思いながら前に進んでいく、それも軽く生きて行くっていうのが私たちに力も与えてくれた。ドロドロしたことや重いことから解放してくれたんじゃないか。私は30歳で子供を産みました。子どもが生まれたら子どもを育てることと仕事で必死で、もうユーミンの曲をあまり聴くことがなくなりました。時々聴いたりコンサートのレーザーディスクを見て元気になるっていう感じでしょうか。でも宮崎駿監督がテーマソングに取り入れたり、そして、やはり今でも聴くとどこまでも遠く歩いて行けそうよという気がしています。誰かが肩を抱いてくれたらどこまでも遠く歩いて行けそうよと。20代の私はこの誰かっていうのは多分彼氏という感じだったのかもしれないが、今はどこまでも遠く歩いていけるのは、これはパートナーであったり、子どもであったり、家族であったり、友人であったり見知らぬ人であったり。多くの人たちに励まされて生きているという実感を持っています。ですから助手席の女ではなく私は私でまっすぐに歩いていく。でも一人ぼっちで何か荒野を歩いて行くっていうのではなく、いろんな人々、見知らぬ人、様々な人に励まされて歩いているという感じがしています。ぜひ酒井順子さんの本を読んでみてください。あの時代は一体何だったのか。そして根本的なところで実は女の子たちが変革を遂げたのではないか。もちろん荒井由美から松任谷由実に名前を変えたと、当時名前なんか変えたくない、結婚したくない、私は私で生きていく、なぜ女性ばかり名前を変えなければならないのかと思った私とはもちろんその時点でも違いがありました。松任谷って名前がかっこいいから改姓したんだって言われていますが。それもまたユーミンらしい。それはユーミンを聴きながら、当然ユーミンとは違う選択、違う感覚でした。でもユーミンがソフトなフェミニズムと言うと変だけれど、女の子をいろんな形で励ましてきたんじゃないか。現在様々な女性の表現者がいます。作家は本当に多い。いろんな女性たちが、いろんな女性たちを応援したり、感覚を歌う、これからもそんな歌がたくさん出てくればいいなと思っています。そして女王たるユーミンがまたこれからどんな歌を作ってくれるのかほんとに期待しています。ユーミンに感謝。そして、等身大で本当に絶妙にうまく分析し、さえわたる酒井順子さんに感謝。酒井さんは、ユーミンの学校の後輩で、雰囲気が良くわかっている。ユーミンは、女子校のリーダーで、女たちのカリスマ、女王で、やはり、似た環境で女性の書き手の酒井さんだからこそ見事に分析できたという気がします。
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映画評「ブラック・スワン」

「ブラック・スワン」
 督 ダーレン・アロノフスキー 、主演 ナタリー・ポートマン、
ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー

 ニューヨークバレエ団の新しい演目を芸術監督のルロワ(ヴァンサン・カッセル)は、白鳥の湖に決める。斬新な解釈で、意欲的な舞台を作ろうと考える。そのため、今まで、バレエ団のプリマだったべス(ウィノナ・ライダー)が引退をするのをきっかけに、新たなプリマを抜擢しようとする。バレエ一筋でやってきたニナ(ナタリー・ポートマン)は、プリマになりたいと思い、べスからこっそり盗んだ真っ赤なルージュを唇に塗り、ルロワの事務所を訪ねる。

 技巧的で、清潔で、上品で、可憐なニナは、白鳥を踊るには、最適だが、黒鳥の表現が難しい。
 自由奔放で、挑発的で、予測のできない自由な踊りを踊るリリーは、黒鳥にぴったりである。
 ルロワは、リリーをプリマに抜擢をすると思っていたら、ルロワは、ニナを主役に選ぶ。
 プリマを踊る重圧となかなか黒鳥の表現ができないニナ。ライバルのリリーが主役を奪うのではないかという不安。焦燥感と孤独を強めていく。
 果たして、二ナは、初演の日に、踊ることができるだろうか。

 この映画は、自分との闘いということと嫉妬ということが大きなテーマである。

 自分との闘いということでいうと、自分からの脱皮、自己否定ということがテーマである。
 この映画は、ニナと3人の女性との関係が描かれている。嫉妬の関係である。

 まず、母親である。
 母親は、かつてバレリーナであり、ニナを妊娠したことで、バレーを辞めたと言っている。しかし、ある意味いうと、群舞を踊るその他大勢の一人であり,夢をあきらめたとも言える。
 母ひとり、子ひとりの生活。
 母は、バレエに励む娘を一心に支え、励ましている。
 母の夢の実現を娘がしている。
 
 しかし、事態はそんなに単純ではない。
 ニナが帰ってくると、母は一人で絵をかきながら,泣いている。
 母の気持ちは、本人もわからないくらい複雑なのだ。

 ニナの成功を誰よりも望んでいるのは母であり、また,母は自分が実現できなかったことを娘が実現するのではないかというときに、微妙なブレーキ役も果たす。
 「4人の白鳥もいい役割よ。」と言ったような。
 深層心理では、娘が自分の果たせなかったことを果たすかもしれないというときに、嫉妬を感じているのではないか。
 
 母は、娘を心配し、コントロールをしてきた。
 母は娘の殻である。
 殻は、外部からなかみを守るという役割となかなかなかからは破れないという役割という両義性を持つ。
 娘は、母から守ってもらうと同時に母から拘束をされる。
 
 ところで、夫や恋人で、応援をしてくれながら、実は自分のテリトリーのなかにいろよとか「君には無理なんじゃないの。」と言う人はいそうな気がする。これはこれで恋愛の呪縛の問題である。恋人とは一応別れることができるが、母親とはなかなか別れることができないところがミソである。
 
 ニナは、清潔で、上品な白鳥は踊れるが、奔放で、誘惑的な黒鳥は踊れない。
 自分のなかの性的なものも含め抑圧をしてきたのである。
 
 白鳥と黒鳥、ニナとリリーは、対照的だ。この映画を見ながら、「17歳のカルテ」というウィノナ・ライダーが主演した映画を思いだした。ウィノナ・ライダー役は、内省的な女の子、かたやアンジェリーナ・ジョリー演ずる奔放で、自由で、破壊的な女の子。対照的な2人。当時人気絶頂のウィノナ・ライダーを食って、輝く印象的な
演技をしたアンジョリナ・ジョリが、アカデミー賞の助演女優賞をとり、わたしは、ウィノナ・ライダーは、静的な演技をせざるを得ない役柄だったので、少し同情をしたものだ。ウィノナ・ライダーとアンジェーリナ・ジョリーは、対照的な女の子、まさに、ニナとリリーを演じていた。
 対照的に2人なのだが、他方、見方を変えれば、同じ人のなかにある2つの側面という面もある。
 慎重で、臆病な部分と大胆で、自己主張し、破壊的な部分と。
 自分との闘い、自己否定、分身ということも描いている映画だと思う。
 正、反、合。アウフヘーベンした自分に出会うことができるのか。
 そのために殻を破ることができるのか。

 作家の村山由佳さんが、作品をがらっと変え、複数の男性との性愛を描く小説をかくことができるようになったのは、母親が認知症になり、彼女の小説を読めなくなったこともあるのではないかと語っていらっしゃるのを読んだことがある。
 多くの娘は、母親の期待に沿いたいと思う。母親を悲しませたくないし、がっかりさせたくないのだ。
 どこかで、母親の意識や眼を意識して暮している。

 この映画は、母と娘の関係のある真実を描いていると思う。

 バレリーナが踊っているかわいい小さなオルゴール。これを母は鳴らしながら、娘の枕元にいて、寝つこうとする娘を慰める。恐らく、ニナがごく小さいときから、このオルゴールを鳴らしていたのだろう。
 このオルゴールを叩き割り、ぬいぐるみを捨てさるニナは、はっと何かに気付いたのだ。

 次に、べスとの関係。
 ニナは、長年プリマをやってきたべスに憧れている。
 ナタリー・ポートマンとウィノナ・ライダーは、よく似ている。ナタリー・ポートマンは、ウィノナ・ライダーの後継者のように思っていた。ナタリー・ポートマンは、天才子役出身、女優のキャリアを一時中断をして、名門大学に進学、「優等生」といった点で、ジョディ・フォースターに似ている。
 しかし、ある意味ウィノナ・ライダーの後継者でもある。
 小柄で、思いつめたような表情や繊細さ、愛くるしい童顔などである。ウィノナ・ライダーのほうが自由奔放、破壊的なところがあると思うが。

 ナタリー・ポートマンは、1981年生まれ。ウィノナ・ライダーは、1971年生まれ。30歳と40歳くらいというところだろうか。

 べスは、本当は引退などしたくなかったのである。しかし、年齢などにより、引退を余儀なくされる。バレエ団も客寄せなどのために、新しい,新鮮な女王を必要としていると芸術監督ルロワは考えたのである。

 ニナに嫉妬するべス。
 
 わたしは、ウィノナ・ライダーとナタリー・ポートマンの大ファンで、ほとんど作品を見ているので、感慨無量だった。
 ウィノナ・ライダーは、「ヘザーズ」や素晴らしい作品があり、若いうちから名声を勝ちえていたが、「17歳のカルテ」後からだろうか、あまり作品を見なくなっていた。
 また、様々な作品に出て欲しい。
 まだ、40歳なのだもの。

 次に、リリーである。
 挑発的で、自由で、野心むきだしで、バレリーナの規律を無視して生きている。
 
 ニナが持っていないもの。しかし、リリーに挑発されるなかで、ニナ自身が変わっていく。ニナのなかにも、リリーはいるのだ。

 リリーは、プリマをねらっている。ニナの万が一のときの代役を獲得をする。
 ニナは、べスに代わって、プリマを獲得するが、今度は、リリーに、攻撃をされ、とってかわられるのではないかという不安や恐怖心にさいなまされる。

 リリーがニナに嫉妬しているのだが、嫉妬されたニナは、恐怖心を持つ。

 ニナは、望んできたプリマの座を得るが、重圧はかかるし、大変。技巧的で、美しいバレリーナというだけではやっていけない。
 自分との闘いであり、今までの自分を自己否定しなければ、前に進めないのである。
 そして、母親、べス、リリーからの嫉妬を切りぬけなければならない。

 この映画でうまいなあと思ったのは、嫉妬が単純には描かれていないのである。
 一番の支援者であり、伴走者であり、味方である母親の深層心理のなかに複雑な嫉妬が隠れている。
 自分ができなかったことを、他の女が乗り越えようとしていることに、心中穏やかになれないのだ。応援をしているのか、実は、ブレーキをかけているのか。そして、当の本人もよくわかっていないのである。嫉妬している、されているというのが、はっきり見え、わかっていれば、まだ対処の仕方がある。しかし、心は複雑で、よく見えないのだ。
 
 この映画は、まさに女性映画だ。
 男性たちは、出演しているが、ルロワ以外は重要な役割は果たしていない。ニナは実はルロワを少し好きだろうが、そのことが重要なポイントにはなっていない。

 ある一人の女性の内面と彼女のまわりとの女性との支援であり、嫉妬であり、関係を描いている。

 男性との関係、恋愛が描かれているのではない。
 
 少し前まで、多くの登場人物が出てくるとひとりくらい女性を入れましょうと、いわゆる花を添えるという感じで女性が登場するということがあった。
 大好きなハリソン・フォードの冒険物シリーズでも強い女性は出てくるけれども、彼女の内面が描かれるわけではない。もちろんそれも映画。刑事物や探検隊、時代劇で女性がひとりということはよくあった。
 それらとは全く違う映画であった。

 映画を見ると、元気をもらったり、違う考えをもらったり、いろんなものをもらう。違うところへ連れていってくれる。
そして、癒しやカウンセリングの役割もある。
 わたしは、この映画をこれまた自分を投影して見た。

 人から一切嫉妬を受けない人はあまりいないのではないだろうか。
 嫉妬がテーマだが、むしろ重圧と嫉妬を受けたあとの個人の内面がテーマだと思う。
 嫉妬を受けて当たり前。
 全部自分のこと。
 
 黒鳥に象徴をされる強さ、自己主張、自由さも手にすることができるか。
 一筋縄でいかない映画。女の成長物語なんで言えない複雑で魅力的で少し怖い映画。
 
 見た後に必ず少し違う自分になれる映画。
 真っ赤な充血をした眼で、黒鳥を踊ろうとするニナの姿が一番印象的である。
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レッドクリフ パート2」

5月3日(日)
「レッドクリフ パート2」
 横山光輝さんの「三国志」を全巻読んだことがある。
 映画を見ながら、ああ、マンがで読んだといろいろ思い出した。
 圧倒的な軍事力を誇る曹操軍。
 それに対して、迎え討つは、何十分の一。
 でも勝つんですよね。
 社民党が勝つにはどうしたらいいかというヒントを少しでも得られればという思いもあり映画を見る。

 地の利、自然の利、結束力、知恵、相手を弱らせるなどなど勝つヒントはいろいろ。
 史実に忠実な部分と映画を面白くするために導入した部分と。
 映画的に導入をした部分の評価が、この映画の評価ともつながると思う。

 以前見た「墨攻」は、登場人物は、男性だけ。はっきり言って女っけなし。
 あの映画は、そんなところが地味としてヒットしなかったのだろうか。

 「兼愛非攻」は、「天地人」の「愛と義」に通ずるところがあって、興味深かったけれど。

 「レッドクリフ パート2」は、中国の映画にハリウッドの味つけをしている。
 絶世の美女なるものを登場させ、その美女を手に入れるために、曹操は、戦争をしかけ、その美女は、夫を救うために、単身曹操のいる城に向かう・・・・。
 えっ、こんな話だったけというなかれ。
 わたしもそう思った。
 話を面白くするためにこの映画はそうしている。

 女って、単身行くことができるのだとためになる話でしたが、史実と違い、こんなんで歴史が決まるの?という気もしました。
 とことん戦いというふうに、手に汗を握る闘争劇のほうがすっきりするのでは。

 女性が2人登場をする。
 ひとりは、その絶世の美女。
 そして、もうひとりは、男装をして、兵隊のひとりになりすまし、曹操軍に潜り込んで、スパイを働き、有益な情報をもたらす。
 単に美女だけにしていないところが、これまたハリウッド的。
 違うタイプの女性も登場させている。

 それにしても日本では卑弥呼の時代に中国はこうだったのだとあらためてビッグさに驚く。

 諸葛孔明役の金城武さんもひょうひようとしたいい味を出している。
 
 また、両方の兵士の描き方は、参考になると思う。
 「ロード・オブ・ザ・リング」の映画は、善と悪の対決で、悪は、異形の形をし、ひどく醜く描かれていた。
 善の側は、いろいろいたけど、エルフは、まさに白人の象徴で、背が高く、あくまでも白かった。
 悪は、攻め滅ぼされる対象。悪の側の象なんて、まさにオリエンタルだものね。
 
 白人対その他とも言える。
 キリスト教の描き方なのかどうかわからないけれど、善と悪は、きれいにぱっちんと描かれている。

 そういえば「スターワォーズ」のダースべーダーは、悪に身を落とすにつれ、外見が真っ黒になっていく。

 ところが、この「レッドクリフ パート2」は、曹操軍の兵士と呉側の兵士の交流が描かれている。
 スパイにはいった呉軍の兵士と曹操軍の兵士は、曹操軍の兵士が知らないからだけど、ともだちになる。
 曹操軍の兵士たちは、故郷を遠く離れ、ホームシックにかかったり、人間的に描かれる。
 曹操軍は、帝国軍で、曹操は、侵略者として、描かれているのだけれど、曹操軍の兵士は、故郷や家族のことを思い、税金のことを考え、他の人たちのことを心配をする普通の人として描かれている。
 こんなところは、いわゆる西洋の映画ではあまりないいいところのように思う。

 戦略が大事ということを教えてくれる映画。
 社民党もがんばらなくっちゃ。





 
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「ミルク」

「ミルク」
監督 ガス・ヴァン・サント
主演 ショーン・ペン

第81回アカデミー賞主演男優賞をショーン・ペンが獲得。脚本賞も受賞。
憲政記念館で映画議員連盟が上映会を行ったので、見に行った。ハーヴェイ・ミルク
の活動家としての最後の8年間を描いている。彼が40歳から48歳で、殺されるまで。

サンフランシスコ市の市政執行委員選挙や国政の下院議員選挙に立候補し、4回目の
選挙において、サンフランシスコ市の市政執行委員となる。ハーヴェイ・ミルクは、
アメリカ合衆国で初めて、同性愛を公表して当選した公職者である。

私は84年のアカデミー賞受賞ドキュメンタリーを受賞した「ハーヴェイ・ミルク」
(ロバート・エプスタイン監督)を80年代の後半、88年頃だろうか、見た。この映画
を配給しているパンドラカンパニーの社長である中野理恵さんのすすめで、見た。こ
のドキュメンタリーを当時見ることができて、本当に良かった。友人中野理恵さんに感謝して
いる。

私は、当時、ハーヴェイ・ミルクの果敢な活動と、そしてゲイであるということで殺される
という現実にショックを受けた。若い男性からミルクに電話がかかるシーンも出てく
る。「ありがとう」という電話である。私はこの世界に居場所がなくて、絶望してい
た人たちが、ミルクの存在に励まされていることに涙が出るような思いがした。死な
ずにすむのならいいではないか。同性愛に対するすさまじい憎悪とバッシングが、
人々を殺していくのはおかしいではないかと思った。

今回の映画は、運動を丁寧に描いている。具体的にどんな政治課題と闘っていたか良くわかる。ゲイ権利運動の高まりとともに、バッシングも強くなっていく。アメリカの各地で、
同性愛者権利条例が住民投票によって、次々に廃止されていく。危機感をいだくミル
クたち。カリフォルニア州でも、同性愛の教師を解雇できる提案6号が住民投票にか
けられることになる。マイノリティである人々が、どうやって多数を説得するか。ミ
ルクは、この提案6号を出そうとする下院議員に対し、論戦をのぞんでいく。どこに
でも、どんな形でも行くと。
保守層の極めて多い地域で、しかも提案に賛成する人々が圧倒的に多い集会で、2人
で討論をする。ミルクが発言するたびに会場から野次がとび、相手方が発言するたび
に拍手がわく。そんな中で、時にユーモアをまじえて、見事に切り返していくミル
ク。胸が痛くなるようなシーンだ。

性的マイノリティだけでなく、少数者の人権の問題であることが、段々理解されるよ
うになる。カーター元大統領やレーガン元大統領まで反対を表明するようになる。当
初の予想に反して、6号は反対で通らない!大喜びのミルクたち!
このキャンペーンの途中で、ゲイパレードの中で行うミルクの演説が感動的だ。自由
の女神の台座の言葉や、アメリカ合衆国憲法のの法の下の平等が高らかに語られる。
私は思わず、オバマ大統領の演説を思い出した。

ところで、ドキュメンタリーの方は、政治活動の部分が圧倒的に多かったが、今度の
映画は、私生活の部分もとても良く描かれている。ミルクは、ゲイをカミングアウト
していないビジネスマンのとき、ニューヨークの駅で20歳年下のスコット・スミスと
恋に落ち、サンフランシスコに移住し、カメラ店を開店する。
知的でシャープで感性の豊かなスコット。
ミルクが家の中でも、四六時中政治の話をすることをスコットは嫌がるようになる。選挙の準備中、「もう僕は耐えられない」と家を出て行ってしまう。がっくりくるミルク。

私などもほとんど政治一色になっているので、身につまされる。
ミルクは、次に、政治の話など一切できない、むしろミルクに頼り切りの若い男性を恋人にする。うーむ。色々だなあ。


仕事場にも、不安でしょっちゅう電話をかけてくるその若い男性。彼は、ミルクの不
在中、淋しくてたまらない。異性愛も同性愛も関係は様々だ。彼がおかしくなってい
く。悩むミルク。
激しい政治活動をし、暗殺するぞという脅迫も受けながら、私生活を支えとし、ある
いは悩み苦しむミルク。

人間的なものが描かれている。周りの男性、女性たちもすばらしい。実写の本物のミ
ルクのあたたかで、カリスマ性のある笑顔がステキだ。

当時のゲイパレードの様子も心にしみる。
私がサンフランシスコで話を聞いたゲイの人たちのことも思い出した。ゲイパレー
ドの写真を見せてくれた。
マイノリティとして、この世で生きる辛さと孤独。でも、連帯とパワーで変えていく
気持ち。

ミルクの輝ける人生は、マイノリティの人々に、そしてすべての人々に「がんばれ
よ」と言ってくれている。
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天地人

4月18日(土)
 明日は、フジの報道2001に出た後、新潟へー行く予定。
 天地人の舞台に行くので、「天地人」(火坂雅志著、NHK出版)を読む。

 義と愛なんて、まさに社民党が言っていることなんて思ってしまう。

 直江兼続は、上杉謙信の「天下をとることは小事にすぎず。それよりも義を貫き背筋を伸ばすことのほうが大事」という言葉を胸に、主君である景勝を支えて名だたる武将たちに真っ向から立ち向かっていく。
 うーん。
 義を貫き背筋を伸ばすことのほうが大事って、これまた社民党のためにあるようなセリフ。
 わたしは、いつも色紙に、「愛と平和」と書いてきた。 
 ときに、「義と愛」と書いてみようかなあ。それにしても兜に、愛という字を掲げて戦うなんて、すごいなあ。こんな人がいたのだ。

天地人

新潟県連合の桝口代表と一緒に、写真撮影をしました。
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「ミツバチのささやき」

最近、「ミツバチのささやき」の映画を見る。
ビクトル・エリセ監督の3部作の1作目。
1970年代、軍事政権フランコ政権下で作られた1940年代のスペインを描いたもの。

アナとイサベルの小さな姉妹。おかあさん、おとうさんの表情が様々なことを語る。
フランコ対民主政治を支持する側の闘争。それが小さな村のひとつの家族、そして
アナに大きな影響を与えている。

脱走兵に小さなアナ(女の子の名)が「上げる」と小さなリンゴを差し出すシーンが
凝縮したシーンだ。軍事政権下でぎりぎりに作られた自由や思いを痛切に訴える映
画。

映像や表情の描き方が陰影に富み、深い。
後の2部作も楽しみに見たい。

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街場の教育論

3月17日(火)
 「街場の教育論」(内田樹著、ミシマ社刊)
 教育や子どもについて書かれた本は、何となくそうかなあとか、子どもをどっか下に見ていて何か違うなあとか、教育について、美化するか、学問的になりすぎているかもなんて思って読んだりしていた。
 何だろう。教育臭というべきか。

 この本は、眼からうろこというかそうかという部分があり、人間関係で納得できるところが、いっぱいあって、そうだ!と思った。採用試験で、誰を採用するかなんていうところも。
 そうなのかなんて。

 大学で教えるときに、わたし自身にも大変ためになることがいっぱいだった。

 また、政治の世界で、教育の話をするときに、陥りがちな欠点も指摘をしてもらったと思う。
 教育は、結果が出るまで非常に時間がかかるので、教育は、すぐ政治の責任を問われないので、政治家は、教育に逃げ込むなんて言われると、それはそれで、自壊すべきことと思う。
 久しぶりに面白い本。

 
  
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「スラムドッグ$ミリオネア」

3月14日(土)
「スラムドッグ$ミリオネア」
監督 ダニー・ボイル 脚本サイモン・ビューフォイ
主演 デーブ・パテル マドゥル・ミッタル、フリーダ・ピント、アニル・カプール、イルファーン・カーン
 
 ハイテンションで、パワフルで、スピード感あふれる映画。
 とにかく子どもたちのかわいらしさ、たくましさ、過酷さに圧倒される。
 ジャマールやラティカなどのかわいらしさは、この映画のとてつもなく心打たれるところだ。

 スラムの生命力もすごい。
 変貌するインド、ムンバイも描かれている。

 なぜジャマールは、クイズで、正解が出せるのか。 
 偶然だが、そのことをなぜジャマールが、答えられるのかを彼の過酷な人生が教えてくれる。
 意外、意外。
 そうだったのか。

 クイズの答えと彼の小さいときからの人生が、交差し、映画を見ているわたしたちは、彼のロードムービーのような、そして、過酷な人生をともに生きていくような感じになる。

 わたしは、この映画は、すごい純愛物語だと思う。
 
 久しぶりに幼なじみのラティカに会ったら、ラティカが言う。
 「忘れないでいてくれたのね。」
 ジャマールは、言う。「一瞬たジャマールりとも忘れたことはなかった。」と。

 すごいなあ。
 こんなことを言われたら、女冥利に尽きるなあ。

 この映画は、ジャマールのやさしさ、一途さ、正直さ、純愛を描いている。
 ジャマールは、やさしい。眼をつぶされて、歌いながら、物乞いをさせられている幼なじみに出会い、100ドルをあげる。
 
 この映画を見終わったときは、わたしは、ジャマールの一途さ、純愛に打ちのめされた。
 そして、日が経つにつれて、主旋律は、ジャマールだけど、おにいちゃんであるサリームとの兄弟愛も強く感ずるようになった。
 おにいちゃんは、ときに、意地悪である。弟がトイレにはいっているときに、鍵をかけたりする。これに、全く動じず、行動に出るマジャールのあきらめないというのもすごいのだが。
 おにいちゃんは、弟であるジャマールが、他のことに心を奪われ、没頭をすることに耐えられないのではないか。
 弟がせっかくもらったスターのサインを勝手に売り飛ばす。また、ラティカを自分のものにしようとする。これは、不器用なおにいちゃん、愛情をうまく表現できないおにいちゃんとジャマールの3角関係とも言えるが、本質は、おにいちゃんは、ジャマールが別のことに没頭をすることに耐えられないのではないか。

 親はいない。家族は、兄弟しかいないのである。サリームにしてみれば、弟しか家族はいないのである。兄の弟に対する深い愛を描いているとも言えないか。弟の思いにひきずられ、また、ムンバイに戻ってきたりもする。
 実際ジャマールは、度胸のあるサリームによって何度も危機を救われているのである。
 体を張って、弟を守るのである。
 
 一途で、純情で、やさしいマジャール、ワルで度胸のあるサリーム。
 両方がスラムをあらわしている。

 笑ってしまうユーモラスな場面も驚いてこれまた笑ってしまう場面もたくさんある。

 人生賛歌でもある。

 猥雑であり、矛盾ととんでもないことのあつまりであり、純愛物語であり、こどもたちのかわいらしさやバイタリティーに脱帽である。 
 

  
 
 
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「田辺聖子の人生あまから川柳」

田辺聖子の人生あまから川柳」
田辺聖子著、集英社新書刊

 田辺さんの「佳きかな、川柳。覚えておいて人生の中でハンカチみたいになんぼで
も使ってほしい」という言葉が帯に示されている。いろんな人の川柳が田辺さんの紹
介つきでのっている。うーん、長い命を持つ川柳という感じがする。時代が変わって
ても変わらない人間や人生の真実というか、あるおかしな面というか。

 田辺さんは、いろんな川柳の本を出していらっしゃる。
 ここで紹介をされている川柳は、ふふふ、はははと笑いたくなり、ほっかりとあた
たかくなるものである。
 
 「このご恩は忘れませんと寄りつかず」 佳凡

 「かしこいことをすぐに言いたくなる阿呆」 亀山恭太

 「ぼんやりとしていたほうがよく儲け」 八島白龍

 「この人も妻子が待つか手のぬくみ」 林照子
 
 「心中は出来ず勘定して帰り」 岸本水府
  
 なんかおかしいでしょう。
  
 わたしは、新聞に載る川柳を愛読している。
 各紙に載っているものは、どれも面白いし、おお、こう来るかと読んでいる。
 そのなかでも面白いのは、毎日新聞の川柳で、仲畑貴志さんが選んでいる「仲畑流
万能川柳」である。これがどれもすぐれものなのである。

 政治についてのものは、本当に面白い。
 そうだ、そうだと読んでいる。
 しかし、この川柳欄が面白いのは、人生の味や人の微妙な思い、複雑な感情、人生
の真実が込められているからである。

 「モト妻の趣味のカーテンはずす妻」 
 
 なんか風景が浮かんでくるではないか。気に入らなかったのでしょう。

 「夫臥し私だけの人になる」

 これは、遊び歩いていたか、恋人がいた夫に対する妻の川柳でしょう。しかし、こ
の川柳には、やっと私だけのものになったという妻の愛情も込められているように思
うけどな。
 
 「彼ふたり同じ映画を見る私」

 もちろん政治についての川柳が多くて傑作ぞろいなのだけれど、わたしは、仲畑さ
んのセンスに笑ってしまう。面白い。
 ここの川柳ではないけれど、

 「本物の息子が振りこめ言ってきた」

 というのもおかしかったな。
 親はとほほだなあ。
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「茨木のり子詩集 落ちこぼれ」「谷川俊太郎の問う言葉 答える言葉」

3月9日(月)
 大学時代のある時期、詩集ばかりを読んでいた。
 その双璧が茨木のり子さんと谷川俊太郎さん。
 
 「落ちこぼれ」(l理論社刊)は、茨木さんの大好きな詩が収録をされている。
 「自分の感受性くらい」とか「汲む」とか。
 そして、この詩集のなかにはいっている「小さな渦巻」は、どこかでどんなふうに広がり、影響を与えるかもしれないのだから、しっかり発信し、しっかり仕事をしていこうという気にさせてくれる詩である。

 「谷川俊太郎の問う言葉 答える言葉」(イースト・プレス刊)は、ひとつひとつの言葉が、しなやかで、自然で、かつ何か宇宙に広がっていくような気もして、そして、ああそうだよねとイメージが広がっていって、とてつもなく自由な気持ちになる。

 大学時代「20億光年の孤独」や「生きているということ」にひどく共感をし、感動をしたっけ。

 今、また、詩や短歌やそして、いろんな川柳を読んで楽しんでいる。
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