
「100万回生きたねこ」佐野洋子著
最近、初めて佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」を読んだ。
びっくりして、ずーと考え続けている。
生きること、死ぬこと、命、自分、他者のことである。
100万回、生きた猫がいた。100万年生き、100万人の人に飼われた。王様、船乗り、サーカス、泥棒、子ども、高齢者などに飼われていた。しかし、その猫は飼ってくれていた人たちなどが嫌いだった。猫は死んで、飼ってくれていた人が、泣いても、その猫は泣かなかった。
自分のことだけ好きだった。野良猫になって、白い猫を好きになって、子どもが生まれる。
白い猫が死んでしまって、100万回生きた猫は、100万回泣いて、死んでしまいました。
うーん。
ボーボワールの本に、「人はすべて死す」(岩波書店刊)というものがある。上下巻である。大学生のときに読んだ。
実存主義をストーリーにしたもの。永遠の命を持った男の物語である。永遠に死なない。周りの人たちが、愛する人たちが亡くなっても彼は死ねない。段々彼は生きる屍となっていく。
人は死ね。命は有限である。だららこそ自由があるのだということである。
この本を「100万回生きたねこ」を読んで思い出した。
死ぬのは嫌だ。永遠に生きたい。しかし、そのことはどういう意味を持つのか。
ねこはなぜ今まで死ななかったのか。生きていなかったからではないか。自分のことしか好きではなく、誰も愛さなかった。誰も愛さなかったから、未練も、何の感情もなく、悲しくもない。関係ない。
ねこは、生まれて初めて自分以外のものを愛した、白い猫であり、子どもたちだ。
生きたのだ。生まれて初めて生きたのである。自分以外のものを愛するということが生きること。
初めてこの世で、関係性ができた。思いが初めて誕生したのである。
初めて生きたので、初めて死んだのではないか。生きていなかったので、死ななかったのである。
生きるとはなにか。自分以外の愛するものと生きること。愛すること。
命は有限だが、だからこそ生きる価値がある。
佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」という本を読んだことがある。
死ぬことが、悲惨で、何がなんでも避けることという扱いではなかった。「100万回生きたねこ」に通ずるものがあるのではないか。
死ぬのは嫌だ。永遠に生きていきたい。でも死ぬからこそ生きていることが光り輝く。
より良く生きていきたいと強く思う。
繰り返し、繰り返しこの絵本の中身を考えている。
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ネタバレしているので、映画を見てから読んでください。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を 見て。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の映画を見たとき、2011年3月11日の東日本大震災、東電福島原発事故を経て、このような映画ができたのだという感慨を持った。
重い大変な体験を経て、このような映画が誕生したのだという感慨である。命を救いたいということである。命を救うために何でもしようということである。原発事故などたくさんだということである。
「シン・ゴジラ」で、ゴジラが動くときに、放射性物質が出て、これについて、赤、黄色などの放射性物質の色分けの地図が出る。これはまさに東電原発事故のときに見たものである。
東電福島原発に、「キリン」と呼ばれる首の長い重機で、海水を注入し続けることがあった。見ながら、ああ、何とかして、原発を静めてくれと思った。
ゴジラに、「キリン」のような重機で、凝固剤を注入し続ける。人間が作り出した放射性物質に人間たちが復讐される。それを何とか食い止めたい。命を救いたい。
「君の名は。」では、東京の高校生と岐阜県の女の子の意識が時々入れ替わる。
何のために。時空を超えて、時間軸を歪めても、命を救おうと努力する。村に突然災害が起きることを何とか食い止めたい。
意識が入れ替わっている相手を含めて、多くの人を救いたい。そのためには何でもするということである。
豊かな自然。豊かな当たり前の生活。村のお祭り。それが根こそぎ奪われるのが、災害であり、原発事故である。
津波や震災、原発震災を繰り返し思い出す。未来をわたしたちはどう作るのか。
命以上に大事なものはない。自分の命も大事だが、自分の愛する人々、そして、すべての人々の命が大事。
あまりに苛酷な体験を経験したわたしたちは、脱原発、災害防止、災害被害をなくすということに全力をあげるべきではないか。ゴジラは、建物を壊し、街を壊し、人々の生活と命を奪うが、ゴジラこそ人間が作ったものである。
4月18日(土)
明日は、フジの報道2001に出た後、新潟へー行く予定。
天地人の舞台に行くので、「天地人」(火坂雅志著、NHK出版)を読む。
義と愛なんて、まさに社民党が言っていることなんて思ってしまう。
直江兼続は、上杉謙信の「天下をとることは小事にすぎず。それよりも義を貫き背筋を伸ばすことのほうが大事」という言葉を胸に、主君である景勝を支えて名だたる武将たちに真っ向から立ち向かっていく。
うーん。
義を貫き背筋を伸ばすことのほうが大事って、これまた社民党のためにあるようなセリフ。
わたしは、いつも色紙に、「愛と平和」と書いてきた。
ときに、「義と愛」と書いてみようかなあ。それにしても兜に、愛という字を掲げて戦うなんて、すごいなあ。こんな人がいたのだ。

新潟県連合の桝口代表と一緒に、写真撮影をしました。
最近、「ミツバチのささやき」の映画を見る。
ビクトル・エリセ監督の3部作の1作目。
1970年代、軍事政権フランコ政権下で作られた1940年代のスペインを描いたもの。
アナとイサベルの小さな姉妹。おかあさん、おとうさんの表情が様々なことを語る。
フランコ対民主政治を支持する側の闘争。それが小さな村のひとつの家族、そして
アナに大きな影響を与えている。
脱走兵に小さなアナ(女の子の名)が「上げる」と小さなリンゴを差し出すシーンが
凝縮したシーンだ。軍事政権下でぎりぎりに作られた自由や思いを痛切に訴える映
画。
映像や表情の描き方が陰影に富み、深い。
後の2部作も楽しみに見たい。
3月17日(火)
「街場の教育論」(内田樹著、ミシマ社刊)
教育や子どもについて書かれた本は、何となくそうかなあとか、子どもをどっか下に見ていて何か違うなあとか、教育について、美化するか、学問的になりすぎているかもなんて思って読んだりしていた。
何だろう。教育臭というべきか。
この本は、眼からうろこというかそうかという部分があり、人間関係で納得できるところが、いっぱいあって、そうだ!と思った。採用試験で、誰を採用するかなんていうところも。
そうなのかなんて。
大学で教えるときに、わたし自身にも大変ためになることがいっぱいだった。
また、政治の世界で、教育の話をするときに、陥りがちな欠点も指摘をしてもらったと思う。
教育は、結果が出るまで非常に時間がかかるので、教育は、すぐ政治の責任を問われないので、政治家は、教育に逃げ込むなんて言われると、それはそれで、自壊すべきことと思う。
久しぶりに面白い本。
田辺聖子の人生あまから川柳」
田辺聖子著、集英社新書刊
田辺さんの「佳きかな、川柳。覚えておいて人生の中でハンカチみたいになんぼで
も使ってほしい」という言葉が帯に示されている。いろんな人の川柳が田辺さんの紹
介つきでのっている。うーん、長い命を持つ川柳という感じがする。時代が変わって
ても変わらない人間や人生の真実というか、あるおかしな面というか。
田辺さんは、いろんな川柳の本を出していらっしゃる。
ここで紹介をされている川柳は、ふふふ、はははと笑いたくなり、ほっかりとあた
たかくなるものである。
「このご恩は忘れませんと寄りつかず」 佳凡
「かしこいことをすぐに言いたくなる阿呆」 亀山恭太
「ぼんやりとしていたほうがよく儲け」 八島白龍
「この人も妻子が待つか手のぬくみ」 林照子
「心中は出来ず勘定して帰り」 岸本水府
なんかおかしいでしょう。
わたしは、新聞に載る川柳を愛読している。
各紙に載っているものは、どれも面白いし、おお、こう来るかと読んでいる。
そのなかでも面白いのは、毎日新聞の川柳で、仲畑貴志さんが選んでいる「仲畑流
万能川柳」である。これがどれもすぐれものなのである。
政治についてのものは、本当に面白い。
そうだ、そうだと読んでいる。
しかし、この川柳欄が面白いのは、人生の味や人の微妙な思い、複雑な感情、人生
の真実が込められているからである。
「モト妻の趣味のカーテンはずす妻」
なんか風景が浮かんでくるではないか。気に入らなかったのでしょう。
「夫臥し私だけの人になる」
これは、遊び歩いていたか、恋人がいた夫に対する妻の川柳でしょう。しかし、こ
の川柳には、やっと私だけのものになったという妻の愛情も込められているように思
うけどな。
「彼ふたり同じ映画を見る私」
もちろん政治についての川柳が多くて傑作ぞろいなのだけれど、わたしは、仲畑さ
んのセンスに笑ってしまう。面白い。
ここの川柳ではないけれど、
「本物の息子が振りこめ言ってきた」
というのもおかしかったな。
親はとほほだなあ。
「茨木のり子詩集 落ちこぼれ」「谷川俊太郎の問う言葉 答える言葉」
3月9日(月)
大学時代のある時期、詩集ばかりを読んでいた。
その双璧が茨木のり子さんと谷川俊太郎さん。
「落ちこぼれ」(l理論社刊)は、茨木さんの大好きな詩が収録をされている。
「自分の感受性くらい」とか「汲む」とか。
そして、この詩集のなかにはいっている「小さな渦巻」は、どこかでどんなふうに広がり、影響を与えるかもしれないのだから、しっかり発信し、しっかり仕事をしていこうという気にさせてくれる詩である。
「谷川俊太郎の問う言葉 答える言葉」(イースト・プレス刊)は、ひとつひとつの言葉が、しなやかで、自然で、かつ何か宇宙に広がっていくような気もして、そして、ああそうだよねとイメージが広がっていって、とてつもなく自由な気持ちになる。
大学時代「20億光年の孤独」や「生きているということ」にひどく共感をし、感動をしたっけ。
今、また、詩や短歌やそして、いろんな川柳を読んで楽しんでいる。