今日は少しはゆっくりできる日
2008 / 05 / 06 ( Tue ) 5月6日(火)
今日は、朝から、「みのもんたの朝ズバッ!」ニ出る。与野党6党で、後期高齢者医療制度について討論。 2年前に、強行採決されたときの悔しさは忘れられない。 説明不足というのではなく、制度そのものの設定が無理で、かつ人間の尊厳や生存権をこわしていくのだ。 決して、高齢者だけの問題て゜はない。 75歳以上の人と重い障害者のある人たちがこの制度にはいる。 これらの人たちは、75歳以下の人たちとは、違う制度、違う診療報酬体系にはいるのである。 哲学そのものが間違っている。 日本は、支出で言えば、大きな土建政府であり、社会保障に関しては、小さな政府である。 この間、大沢真理さんの講演会で聞いたが、1970年代初めには、イギリス、ドイツ、フランスの公共事業費(対GDP比)も日本と大差なかったが、以後大幅に削減をしていく。 鶴田立一さんの書かれた「公的支出の経済波及効果ー地域産業連関分析による考察ー」を読んだ。 公共事業の雇用や所得の誘発効果は公的支出の他部門(公務・教育・研究など)より低い。 税金の配分が間違っている。 母に電話をする。 両親とも後期高齢者。 「高齢者だけの問題ではないとテレビで言ってくれてありがとう。」と言われる。 嬉しいな。 介護や医療の問題のなかにわたしもいる。 ところで、うちの事務所の秘書の出産予定日が今日である。 故郷に帰って、お里帰り出産である。 彼女は、とてつもなく元気な妊婦で、ほえて?元気に仕事をしていた。 彼女と話をしていて、検診の無料化などに取り組み、お産の問題に取り組んできた。毎日、妊婦を見て、一緒に国会で仕事をしてきたからである。 無事、赤ん坊が生まれますように! そして、育休が明けてまた一緒に仕事をするのを楽しみにしている。 |
本を読んでいます
2008 / 05 / 06 ( Tue ) 5月5日(月)
今、田辺聖子さんの「芋たこなんきん」(講談社刊)を抱腹絶倒で読んでいる。 10代のときは、サガンを読んでいた。 10代の終わりから、20代、30代と田辺聖子さんを読んできた。 田辺さんと中山千夏さんの本でずいぶん気が楽になった。 田辺さんの恋愛小説は大好き。 「言い寄る」「私的生活」「苺をつぶしながら」「愛の幻滅」などは特に好き。 わたしは田辺聖子フリークなのだ。 サガンも田辺さんも言葉が詩的で、簡潔で、ピタと決まり、人の気持ちをとてつもなくうまくあらわしている。 きちんと見るべきものは見つなのだけれど、人を見る視点が意地悪でない。 さりげなく、人生を楽しみ、幸せとは何かって、どこか考えている感じもいい。 シングルで生きる女性やいろんな家族で生きる女性を描き、とてつもなく時代を先取りしている。 わたしは、自立をしているし、おしゃれで、まともな感覚をして、生きている主人公の乃里子さんのことは、大好きだ。実は、とてつもなくいろんなことを先取りをしている。しかもいいかっこしいではないのだ。 古典の現代訳も一茶や与謝野晶子などの評伝も素晴らしい。 「反貧困」(湯浅誠著、岩波新書)を読んでいる。 そして、うーんとうなりながら感心して読んでいるのは、「地域切り捨てー生きていけない現実ー」(金子勝・高端正幸著、岩波書店) である。 全国見て歩いて、とにかく地域の疲弊が胸に迫る。 自治体の財政難、学校や病院の統廃合、とにかく医者がいない、お産がて゜きないという話、シャッター通りに、地域に雇用がないという話、農業・林業・水産業の切り捨て、年収が少ないこと、若者がいなくなっていること、自殺などの話。 とにかく胸に迫る。 雪降る夕張市にも行った。 今の状況、そして、なぜこんなことになったのかということを豊富できちんとしたデータと事実から解き明かしていく。 そうか、そうか、そうだったよねと読み進む。 多くの本が出され、地域のことや格差をとりあげた本も増えたきたけれど、間違いなくこの本はダントツにいい。 きちんと読みこなし、国会て゜の論戦や政策転換におおいに生かしていく。 事実を踏まえた指摘にぐーの音も出ない。 |
浮世絵を見に行きました
2008 / 05 / 01 ( Thu ) 5月1日(木)
4月29日、大丸デパートで開かれている四大浮世絵師展に行った。 写楽、歌麿、北斎、広重の4人の浮世絵を堪能することができた。 写楽の人物表現のユーモラスさも歌麿の美人画の色っぽさもすてきだけれど、あらためて、北斎と広重のそれぞれの風景画、人が地域で生きてる素晴らしさみたいなものに、感激した。 富嶽百景も東海道53次の浮世絵を見ていると、旅に出かけたくなる。 オランダの美術館で、ゴッが模写した広重の「大はしはしけの夕立」の雨の描写は、欧米にはないものだ。 鯉のぼりの絵の斬新さ、鳥の目から見た下界の描写のダイナミックさ! 一人で歩いて見て、本当に楽しかった。 |
おいしいコーヒーの真実
2008 / 04 / 15 ( Tue ) 4月14日(月)
「おいしいコーヒーの真実」 わたしは、コーヒーが大好き。 今、花粉症で、コーヒーを飲むのを控えているけれど、おいしいコーヒーにほっとする生活を送っている。朝、いっぱいのコーヒーで、元気になり、「今日もがんばろう。」となる。また、疲れたときに、飲むコーヒーは、生き返らせてくれる。 朝、家を出るときに飲み、家に帰ってくると飲む。 実は、一日に何杯も飲んでいる。 喫茶店で、仕事をしたり、原稿を書いたりするのも気に入っていることだ。 というわけで、この映画のなかのコーヒーを飲むシーンにぐっときて、コーヒーが飲みたくなってしまった。 香りが漂ってくる映画、ドキュメントでもある。 コーヒーがどんなところで作られ、どう売り買いされるのか、この映画を見て初めて具体的に知った。 エチオピアのコーヒー農場。 農民の人たちが、借地などで、コーヒーの栽培をしている。必死で、腰を痛めて働いても生活はちつとも楽にならず、貧しい。子どもたちを学校にやることもできない。 ひどく安い値段でコーヒーを売っている。 バイヤーの人が来て、「はい、いくら。」というとそのままの言い値となる。 しかし、消費される主に先進国では、高く販売をされている。 間にはいる人たちが、もうけているのである。 土地は、コーヒーなど限られた品種しか作れない土地である。 このドキュメントのなかで、農民の人たちが、「子どもを学校にやりたい。」と言い、子どもが学校に行きたいというのが、本当に印象的だ。 エチオピアの農協の男性が、がんばる。 自分たちで、直接売り、ひどく安く買いたたかれることをなくそうとするのである。 彼は、農民たちに話し、先進国のコーヒー一杯の値段を言い、現地で、安く買いたたかれているおかしさを言う。 フェア・トレードである。 わたし自身、フェア・トレードで買い物をすることがある。去年、他の野党の党首に贈ったバレンタインのチョコレートは、フェア・トレードのチョコレートだった。ちなみにホワイトデーにお返しをくれたのは、綿貫さんだけだったけれど。 この農協の男性がとってもがんばる。 身の危険があるのではないかと映画を見ているこちらが心配をするほどである。 この映画は、そんな努力も描いて終わる。 彼のエチオピアの農民に対する愛情が、とにかく伝わってくる。 イギリスのスーパーで、ようやくエチオピア産のコーヒー豆を見つける。エチオピアの農民は、必死でコーヒーを作っているのに、エチオピア産のコーヒーをほとんど見つけることができないからである。 コーヒー会社のトップが、「一粒、一粒のコーヒー豆が重要だ。」とインタビューで語る。 このあたりは、ナイキのトップに突撃インタビューをしていたマイケル・ムーア監督を思い出す。 エチオピアで、多くの女たちが、豆をテープルの上に置いて、だめな豆をはじいている。一日の日当が、ひどく安い。 わたしたちが、おいしいコーヒーを飲めるのもこんな努力と労働があったのか! 知らなかった。 「ほっとけない、世界のまずしさ」という言葉がある。 フェア・トレードも知っていて、かつわたし自身、アフリカに行ったこともある。 でも、知らなかった。 うーん、スタバでのんきに何も考えずにコーヒーを飲むことができなくなったぞ! ひとりでも多くの人にこの映画を見て欲しい。 エチオピアのきれいな山や自然に心を洗われた面もある。 知って、感じて、それから何ができるか一緒に考えたい。 |
「ロッカショー2万千年後の地球へのメッセージ」を〜
2008 / 04 / 10 ( Thu ) 4月8日(火)
夜、ストップ「ロッカショ」トークに参加。 SUGIZOさんとセヴァン・スズキさん、中村隆市さんたちとトーク。 青森県六ヶ所村で、核燃料再処理工場が本格稼働しないように、みんなでトーク。 若い人たちが多く、気持ちが良く、楽しいトークの集会。 「ロッカショー2万4千年後の地球へのメッセージ」(講談社刊)は、ポップでわかりやすくて、考えさせられるけれど、暖かいきれいなどこか楽しい本だった。遠くの未来を見ているような、多くの人たちとつながっていけそうな、多くの人たちへの物思いが詰まっているような本だった。 その本の出版記念のトークショーだったので、とてつもなく参加したかったので、ハッピー。 それはともかく本格稼働をとめなくては。 先週の土曜日に、社民党の保坂展人さん、近藤正道さん、民主党の大島九州男さんなどが、六ヶ所を訪れて、視察と交渉をしている。 交渉相手の工場担当者は、この再処理工場の本当に近くに活断層があることを認めたと言う。 わたしは、柏崎原子力発電所に、地震の次の日にはいったけれども、危険極まりない。 とんでもないと思う。 再処理は、プルトニウムを取り出すものである。 再処理の過程で、高さ150メートルの排気塔から放射性物質の希ガス(クリンプトンやヨウ素)が、そして、沖合3キロの放出口からは同じく放射性物質のトリチウムが太平洋に排出されることになっている。 日常的に、トリチウムなどが排出され、原子力発電所に輪に輪をかけて危険である。 質問趣意書も出しているので、回答もきちんと見て、政治の場面でがんばっていく。 また、報告をします。 |
潜水服は蝶の夢を見る
2008 / 03 / 24 ( Mon ) 3月24日(月)
潜水服は蝶の夢を見る 監督 ジュリアン・シュナベール、原作 ジャン=ドミニク・ボービー 主演 マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリ=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシエ、マックス・フォン・シドー 本当に見たかった映画。 40代のジャン=ドミニク・ボビー(以下ボビーとする)は突然倒れてしまう。 それまで、ELLE誌の編集長として、人生を謳歌していたのに、突然倒れてしまう。 映画は、冒頭、徹頭徹尾ボビーの視点から描かれる。ボビーの目をのぞき込む人々。 どうもここは病院らしい。自分はしゃべっているのに、どうも聞こえないようだ。 体が動かない。 3週間の昏睡状態から目がさめたのだ。医者は言う。ロックト・イン・シンドロームと。 全く動けず、無言であるが、意識は鮮明であり、眼球運動は保たれている状態になる。 動くのは左目だけである。 一番の原因は、脳梗塞と言われている。 彼には、支えてくれる人たちがいる。言語療法士アンリエットは、ボビーが左目はまばたきできることから、はいはまばたき一回、いいえはまばたき2回ということを考える。 そして、頻度の多いアルファベットを読み上げ、その単語にくるとボビーはまばたきをする。声を出すことができず、また、指をさしたりできないために、この方法で、コミュニケーションをとっていく。 「死にたい」というボビー。 しかし、ボビーは、まわりの献身的な協力で少しずつ変わっていく。 事実婚だったと思われる妻は、3人の子どもを連れてやってくる。 海辺で子どもたちとたたずみ、子どもたちは遊ぶ。 高齢になっていて、外出がままならない父は、病室に設置された電話に電話をくれる。ボビーは、耳は聞こえるので、まわりの人の介助があれば、電話をかけてくれた人と会話ができるのだ。 ガールフレンドから電話がくる。 つまり事実婚だった妻とは別れていて、ガールフレンドがいたのだ。 子どもたちの母親である彼女は、ボビーとガールフレンドとの間の通訳をすることになる。 数分間、席をはずしてというガールフレンド。つまり、思いのたけをボビーに話すことができる。 席をはずすかつてのパートナー。 「会いに行ったけれど、怖くなって駅から帰ったの」というガールフレンド。涙声になっている。 かつてのパートナーが戻ってくる。 ボビーは、やさしい顔でまばたきをする。 「毎日待っているよ。」伝えてがちゃんと電話を切るかつてのパートナー。 うーん。日本でこんな感じにできるだろうか。 離婚した夫に身寄りがないために、ガンになった元夫の看病を元夫が亡くなるまでしたという話を聞いたことがある。「すごいね。」と言ったら、「だって、彼は面倒見てあげれる人がいないんだもの。」というのが答えだった。かつて夫婦で、やっぱり気心はしれているし、恋愛はなくなっていても愛情はあるという感じだろうか。 こういうとき、ガールフレンドは、遠慮するような気もするが、面倒をみている元妻に対して、はっきりシンプルに、「数分間席をはずしてちょうだい。」と言うのにも驚いた。元妻は、席をはずす。 そして、ボビーは、「毎日待っているよ。」と優しい顔で言うのである。 彼は、毎日待っているのだ。 それを元妻が通訳するのだから。 日本のシュチュエーションだと、なんかドロドロになりそうだけれど、3人がそれぞれはっきり自分の思っていることを言うのである。 潜水服を着ているように、体は動けなくても心は蝶のように自由であるというメッセージが静かに強く伝わってくる。 かわいそうな病人ではない。 頭は実に明晰なので、テレビのサッカーの試合を消してしまう病院の職員に対して、心のなかで、悪態をつく。 二十万回ものまばたきを繰り返して、本を作ろうとする素晴らしさ。 世界中をとびまわってもちっとも自由ではない人もいるだろうし、体は動かなくても魂はとてつもなく自由ということもある。むしろいろんなことをそぎ落として、魂は、豊かに、静かに、自由になっていくのかもしれない。 免疫学者で、リハビリを形式的に打ち切り厚生労働省の政策に怒り運動をしていらっしゃる多田富雄さんのご自宅に伺ったことがある。 脳梗塞にかかられたのだが、話せるのと、キーボードを打ち、音声が出て、会話をすることができた。楽しい、有意義な、触発される会話と出会いだった。 多田さんは、たくさん本も出しておられる。 また、ネルソン・マンデラのことも思った。先日、「マンデラの名もなき看守」の映画の監督と、雑誌ブルータスの取材で対談をした。 ネルソン・マンデラは、27年間獄中にあったのである。 刑務所から、一歩も出ることができず、刑務所から出れるかどうかもわからないなかで、マンデラは、希望も人間性も全く失わなかったのである。マンデラは、黒人政府の初代大統領になり、南アフリカをまとめていく。部族間の抗争や復讐をさせないで、まとめていくのである。 アウンサンスーチーさんもそうだが、拘束されて、身体的な自由は全くなくても、魂は自由であるということを強く思う。 考えてみれば、人は皮膚を体にまとい、魂は体のなかにある。 人は、一生、体という牢獄に閉じこめられているとも言える。 潜水服に閉じこめられているのである。 しかし、どんな人も、すべての人の心、魂は自由であり、それを拘束したりできないのである。 潜水服に閉じこめられたわたしたちは、孤独である。 しかし、魂は自由であり、潜水服を着たまま、人と交流し、この映画のなかのように、多くの人のサポートや愛を受けて生きていく。サポートや愛をかわしながら、生きていく。 人間の自由ということを根源的に描いた映画である。 そして、愛と希望も描いている。 一見不自由に見えても、心は誰からも何ものからも制約されず、まことに自由に羽ばたくのである。 これこそ人間存在そのものだと思う。 根本的なことが、はっきりしていたら、あとは何も恐くない。 人は、病気だろうが、高齢だろうが、いろいろ不自由な人生だろうが、記憶と想像力があり、また、魂の自由は、無限大である。 魂の自由をとにかく大事にしろよと言っている映画のように思える。 海辺の風景が、心にしみる。 また、お見舞いにきたり、看病する人たちの人柄やプロ意識に感動をする。 自由、愛、希望を描いている映画である。 |
「続生き方上手」を読む
2008 / 03 / 17 ( Mon ) 3月15日(土)
日野原重明さんの「続生き方上手」を読了。 最近、改めて日野原さんの本をたくさん読んで、わたしは、すっかり日野原教という感じである。 「母べえ」の映画を見る。 |
はだかの王様ライブを見に行く
2008 / 03 / 09 ( Sun ) 3月8日(土)
何となくだるいのは花粉症のため。 薬を飲んでいるが、やはり喉や目を痛めている。 社会文化会館で開かれた「はだかの王様ライブ」を見に行く。 「他言無言ライブ」と言ったほうがわかりやすいか。 松崎菊也さん、石倉直樹さん、すわ親治さんの3人のひとり語り、パフォーマンス、音楽などが素晴らしい。 政治を斬る、語る、世相を語るというものだが、発想や表現がそうくるかというくらい素晴らしい。 石破大臣をはじめ大臣の物まねとそれによるパフォーマンス、風刺が抱腹絶倒。 あまりに似ていて、そうだよという部分と風刺のききかたにぐっとくる。 とりあげるテーマは、道路特定財源、イージス艦など、まさに、今のテーマ。 わたしのうしろに座っていた紳士が、一人語りの最中、わたしに対して、「あれくらい言ってくださいよ。」と檄を飛ばしてくる。 「はい、がんばります。」 冒頭の松崎菊也さんの「政治家の言葉」の指摘にその通り。 妙な慣用句やわかったような表現、他人事のような総理の表現のおかしさをどんどん突いてくる。 こちらの気持ちも心も頭も柔軟になって、楽しく、元気になる。 わたしの隣りに座っていたいた女性は、げらげら笑っている。 わたしもおかしくて、笑う。 政治でこんなに笑うのも久しぶりかも。 国会では笑うどころか、当たり前だが、怒っているものね。 リフレッシュ。国会で、がんがんやらなくっちゃ。 その後、ジャーナリストの斉藤貴男さんの出版記念講演会へ。 パネルディスカッションに出る上原ひろ子さんと斉藤さんに、会いに、出版記念会へ行く。 上原さんは、着物を着ていた。 みんなで、2次会へ。ガテン系労組の池田一慶さんもパネリストのひとり。最近とみに会います。 |
海からの贈り物
2008 / 03 / 06 ( Thu ) 3月5日(水)
日野原重明さんの「『幸福な偶然』をつかまえる」(光文社刊)を読了。 うまくいかない、なかなか成果があがらないと愚痴をこぼしたり、ストレスを感ずることがあるけれど、考えてみれば、実に多くの「幸福な偶然」に恵まれて生きてきたと気づく。そう考えれば、毎日、いっぱいの幸福の偶然をもらって生きている。 毎日、いろんなことによって祝福されている、わたしってなんてラッキーと思うと、次またいいことが起きそうな感じである。毎日政治の世界では、怒りたいことばかりなので、いろんな「幸福な偶然」を楽しむことも必要である。 日野原さんの本を読んで、「永遠の平和のために」(カント著、池内紀・訳、集英社刊)を読み始める。わかりやすい訳。身近に感ずる。装丁がきれいで、表紙の山本容子さんの絵に惹かれる。 やはり日野原さんの「生きかた上手」(ユーリーグ刊)の冒頭などに、「海からの贈り物」(アン・モロウ著、落合恵子訳、リンドバーグ、立風書房刊)が出てくる。 わたしは、大学時代に読んで、感銘を受けた。 そのとき、感激し、落合恵子さんの訳が出たときにまた読んだ。 今回、また読んでみた。 10代の頃には、わからなかった人生のなかで生きるということ、人生をシンプルにして、豊かに生きるということなどが、心にしみていく。 10代の頃とは、また全然違う感慨がある。 静かに読んでいる。 あわただしい日常のなかで、また、読める機会ができてラッキー。 こんなのも「幸福な偶然」か。 わたしは、小学生の頃、父親に連れられて、宮崎の日南海岸に行って、日がな一日海をながめ、砂山を作って遊んだりしていた。 一日、海にいて、とてつもなく満ち足りて、退屈することがなかった。「海からの贈り物」の本を読むと、海のそばでゆっくり過ごしていた幸福なゆったりした時間を思い出す。 |
ライラの冒険 黄金の羅針盤
2008 / 03 / 02 ( Sun ) 3月2日(日)
ライラの冒険 黄金の羅針盤 原作フィリップ・ブルマン、監督・脚本クリス・ワイツ、主演ダコタ・ブルー・リチャーズ、ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイブ、サム・エリオット、エヴ・グリーン ライラの冒険がついに映画化。あの「ロード・オブ・ザ・リング」のニューラインシネマが映画化したのであるから、これはもう胸を高鳴らせて見るしかない。 舞台は私たちの世界とは似て非なるパラレルワールド。人々はダイモンと呼ばれる守護精霊を常に身近に連れて生きている。ソクラテスは、自分のそばにいつも自分を見守り導くものがあると考えたようだが、それに似ている。自分の魂であり、自分の分身。常にそばにいて、常に語り合っている。ダイモンと切り離されて人は生きていけない。本人が苦しむとダイモンも苦しみ、ダイモンが苦しむと本人も苦しむ。面白いのは、子どものダイモンは常に変化し、大人になるとダイモンは一定なのである。子どもの自我は変わっていくということだろうか。面白い。 ちなみにインターネットでわたしのダイモンを調べたら、洗い熊だった。 実は、この世には無数のパラレルワールドが存在をしている。 昔、昔、学者たちは、パラレルワールドを確かめようと黄金の羅針盤を創り出した。この黄金の羅針盤は、謎を解き明かし、真実を明らかにすることができるのである。 しかし、教権(権力者)は、人々が別の世界があることを発見しないよう黄金の羅針盤を壊してしまう。しかし、たった一つだけ黄金の羅針盤は残っていたのである。その黄金の羅針盤を読むことができるのは、誰か。 ライラは、12歳の女の子。とびっきり元気が良くて、自由奔放で、嘘つきで、暴れん坊。ガキ大将というところか。 ライラの両親は飛行船の事故で亡くなったとされており、ライラは、オックスフォードの学寮で暮らしている。 町には変な噂がとんでいる。子どもたちがさらわれているということとさらわれた子どもたちは北に連れていかれ、ひどい目にあっているというものである。ライラは、友人のロジャーともしもさらわれたら、お互い必ず助けると固い約束をする。2人はとてつもなく友情にあついのである。 上流社会で、権勢をふるうコールター夫人が学寮にやってくる。 ニコール・キッドマンが不気味で美しい夫人を快演している。ぞくっ。コールター夫人は、ライラをロンドンに連れていく。素晴らしいコールター夫人だが、ライラは何か変と思い始める。忍びはいったコールター夫人の部屋で、子どもの誘拐のリストを見つける。何とロジャーも入っている。ひえっ、コールター夫人は、子ども誘拐の総元締めだったのだ。 逃げ出すライラ。 ここからライラの冒険が始まる。ライラは、救出のために北へ行けるだろうか。 国を追われたプリンスであった大白熊のイオレク・バーニソンや気球を扱う紳士などの力を借りて、ライラの冒険が始まる。 ライラの素晴らしいところは、機転であり、行動力であり、正義感であり、必要があれば嘘をついて騙すことができる能力であり、そしてとびっきりの勇気と友情にあついところである。 この嘘をつくというのが素晴らしい。嘘をつくファンタジーの主人公なんて見たことないよ。 「風の谷のナウシカ」は、宮崎駿監督の最高傑作である。女の子がこの世のなかを救うのである。環境・共生・正義の実現など素晴らしく大事なことをみずみずしく語っている。日本が世界に誇るアニメであると思う。ライラと風の谷のナウシカは、似ているところもある。運命の女の子であるということ、世界を救うこと、身軽で行動的で、勇気があって、素晴らしい。しかし、最も違うところは、ナウシカは嘘をつかないが、ライラはつくということである。わたしは、この嘘をつくということにびっくりした。 なんでもかんでも嘘をつくというのではない。危機を突破するのに嘘をつくのである。 ライラは、熊の王が子どもたちがいなくなるのに関与していると思い、熊の王に会いに行く。どうするのか。 ここでライラは、賭けに出る。t 自分はダイモンだと熊の王に言うライラ。人間になりたくてなりたくて仕方のない白熊の王は、従って、ダイモンが欲しくてたまらない。人間しかダイモンを持たないからである。白熊の王はライラを殺そうとするが、ライラは、「わたしがいなくなったら、あなたはダイモンをなくすのだ」と脅す。白熊の王の心を繰り、騙そうとするのである。2人の対決は、まさに息をのむシーンである。 さすが。 「弱いもの」は、権力や強いものに対して闘うときに、すっぽんぽんのぽんの丸裸になるのではなく、隠すものは隠し、嘘をつくべきときは嘘をつき、危機を逃れろということである。レジスタンスの思想というべきか。 ファンタジーの主人公で、こんな感じで嘘をつく主人公は稀ではないか。「清く、正しく、美しく」でないところがいい。嘘をつかない子どもの主人公は、大人にとって安心である。騙されたりしないし、大人から見て素直。ライラはそうではない。大人がてこずるのである。そこがこのヒロインのすごいところだ。 コールター夫人とまた対決するシーンがある。 ここで、コールター夫人は、ライラの出生について明らかにする。普通は、ここでしんみりするところだろうが、そんなことはない。これまた、コールター夫人の裏をかいて逃げ出すのである。 あっぱれ。どんどん逃げろといいたくなる。 白熊に乗って駆けていくライラは、実に楽しそうだ。危険に突入していくのだから、悲愴な顔をしていると思い気や晴れ晴れと楽しそうな笑顔である。楽しいという顔である。わたしもこういう人になりたい。 宮崎駿監督の「隣のトトロ」の猫バスやミハエル・エンデの「ネバーエンディング・ストーリー」のファルコンのように、この白熊に乗って走るのは、実に楽しそうだ。誰だって乗りたくなるだろう。 まだまだライラの冒険は続く。 とてつもない勇気と機転に乾杯! この映画は、権力者(この場合は、教権であり、独裁者たちだが)が、人々に別の世界があり、別の価値観があることを教えない、知らせないようにしているということが重要である。 「アナザー・ワールド イズ ポッシブル」つまり、別の世界は可能であり、別の世界は存在もしているのである。権力は、別の世界があることを人々が知ることを完全に阻止し、この社会に順応するしかないように教え込む。 世界の解釈について、権力だけが解釈し、他の解釈を許さないし、真実発見もさせないのである。 嘘で塗り固めた虚偽の世界。 ライラの嘘のことを書いたが、ライラの嘘は、生きるための、殺されないための知恵の嘘であり、権力者たちが、すさまじい「暴力」も使って塗り固めている嘘とは、全く違う。 パラレルワールドがあると学者も子どもたちも人々も思うことができるのである。 一元的な価値しか認めないか、多元的な価値を認めるかの対決でもある。 一元的な価値しか認めない世界の何と狭量なことか。 パラレルワールドがあることを必死で隠している。 そして、大事なことは子どもたちが、権力にとって大事なのである。 子どもたちをコントロールすれば、未来を制することができる。 わたしは、ここで教育基本法改悪法のことを思った。 「ダークエンジェル」は、「国家」が子どもたちを遺伝子操作し、親に帰属せず、「国家」に帰属する子どもたちを作ろうとしていた。その研究所から、遺伝子操作されて作られた子どもたちが、自由のために逃走をするのである。 国家が、権力が、子どもたちを直接支配し、実験に使おうとしている恐ろしさを「ダークエンジェル」も「ライラの冒険」も描いている。 「ライラの冒険」のほうは、のんきな飛行船が出てきたり、空飛ぶ魔女が出てきたりして、楽しい。 ところで、いろんな人がその人なりの携帯電話を肌身離さず持っていることをふと思い出した。 今や、人々にとって携帯電話がその人のダイモン?! |
本をいっぱい読んでいます
2008 / 03 / 02 ( Sun ) 3月2日(日)
実は、先週は、あまりの乾燥と疲れのためか喉が痛くなって、わたしとしては、少し口数の少ない女(?)iになっていました。もう直って、今週からは復活です。もともと花粉症のため、喉や目は痛みやすくなっています。 これは、神様が健康を大事にしろということとできるだけ黙って人の言うことを聞けということだと思い、肝に銘じて、心して生きていきます・ 少し早く帰ってくると、いっぱい本を読めるので、実は、とてつもなくハッピーです。 今日は、「戦後60年 語り残す戦争体験 わたしたちの遺書」(日野原重明著、講談社刊)、「エコシフト チャーミングに世界を変える方法」(マエキタミヤコ著講談社現代新書)を読む。 マエキタさんは、元気で、生き生きしていて、実にチャーミングな人で、中山千夏さんにしゃべり方が少し似ていた。 日野原さんの本をずっーと読み続けていたら、いのちということをずっーと考えるようになった。 また、医者として、どう患者の苦しみや悩みに向き合うかということも書いていらして、これは、弁護士が依頼者に対して、法的解決だけではなく、心の解決もしなくてはならないということを考えさせられたし、また、政治家は、立法や政策だけではなく、もっと生身の人間の心の苦しみや悩みの解決にももっともっと心を砕かなくてはということも考えさせられた。 いのちと問題ということで、今、山本孝史さんの「救える『いのち』のために」を読んでいる。 医療やがん対策について提言もしていらっしゃるので、遺志をついでがんばりたい。 山本さんは、参議院の厚生労働委員会でがんばっていらして、わたしも同じ委員会なので、がんばりたい。 |
楽しい対談
2008 / 02 / 29 ( Fri ) 2月29日(金)
今日は、まず、労働者派遣事業法の改正について議論。 その後、ジャーナリスト堤未果さんと対談。 堤さんの本「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命」(海鳴社刊)と「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書)2冊は、特に、具体的に細かく取材をし、それぞれの本音を引き出し、全体の構造をきちんと明らかにする労作である。 ブッシュ大統領の「落ちこぼれゼロ法」によって、全国一斉学力テストをし(日本もそうだ)、そのことによって先生たちが競争させられ、追い込まれていく。また、この法律が通ってから、学校は、生徒の成績と連絡先を軍に提出している。学校のなかに、軍のリクルーターたちがくることを制限できなくなった。学校が、情報の提供を拒否すると、助成金がカットされる。 アメリカは、徴兵制を廃止しているけれど、貧しい階層にとっては、志願兵ではなく、徴兵制になっているのではないかという指摘がされている。 日本の未来図を見るようで、ぞっとする。 堤さんは、9・11の日に貿易センターで働いていた。 その後の一方的なメディアのあり方、反テロ愛国法などの法律の制定などにも疑問を持ち、アメリカという国の様々な面について取材をしている。 2大政党制ではだめではないかと言った話にも広がり、とても楽しかった。 JANJANの取材。 その後、今日は、聖路加病院へ。 日野原重明理事長と月刊社民党の対談。 日野原さんに会うのは、これで3回目。 2回目は、ばったり新幹線でお会いした。 緊張をしていたけれど、楽しい豊かな対談となった。 もともと日野原さんの本をたくさん読んでいるけれど、最近出された「いま伝えたい大切なことーいのち・時・平和」(NHK出版)は、平易な言葉で、豊かに書かれた本で特におすすめ。 「いのち」とは自分が自分で活用できる「時間」であるという言葉になるほど。 ひとりひとりが生き方を変えれば、世界が変わるといことも切々と語られている。そして、わたしは、平和への情熱にとにかく感激。 「生き方が楽しくなる15の習慣」(講談社文庫)の本の冒頭に、「今、私がモットーとしていて、75歳以上の人に呼びかけてい ることが3つあります。その一つは、愛し、愛されること。二つめは何かを創り出そうとするクリエイティブな感覚を忘れないこと。三つ目は、つらいときにもくじけずに耐えて、がんばることです。」という箇所がある。 日野原さんは、96歳だけれど、「愛し、愛されること」なんておっしゃるのは、本当にステキだ。 「私はいくつになっても愛し、愛される気持ちを大切にしたいと思っていますから、もちろん今でも何人かの人を愛しています。若い人のいう『愛』とは少し違うかもしれませんが、だれかといっしょに楽しんだり、感動したり、泣いたりする時間を大切にしたいのです。つねに愛そうとする気持ちは、私が長年続けてきた心の習慣といえるでしょう。」と続きます。 わたしが、日野原さんの本やご本人から、学ぶのは、生きるということ、いのち、平和、健康、医療など様々なことがあるけれど、一番学んでいることは、愛ということである。愛がある限り、人は老いないのだ という一番いい見本が、日野原さんである。 ![]() ![]() |
本から伝わってくる素敵な生き方に刺激を受ける
2008 / 02 / 22 ( Fri ) 「きっこの日記」を愛読しているけれど、わたしはきっこさんが誰か知らない。でもメールでやりとりをし、励ましてもらっている。「えっ、あなたが足長おじさんだったの?」と言う日がくるかどうか楽しみにしている。まあ,足長おねえさんかもしれないが。
「きっこの日記 好き?好き?嫌い?編」を買って読もうと思っていたら、早速、きっこさんが本を送ってくれた。ありがとう。 喜んで読む。嬉しいな。 「きっこのブログ」は、政治や社会に起こることに対して、痛烈な一打を与えているという感じだけれど、本はそれに加えて、きっこさんのやさしさに満ちあふれた本である。きっこさんの怒り、何なのよ、ということが、すごいやさしさに裏打ちされていることを思う。 老人ホームに行ったときの話や子どものときの話が出てきたり。 俳句を作る人だから、とてつもなく季節感があって、言葉が豊かなところがあって、なんかブログの雰囲気とちょっと違って新鮮だ。 ぶちぎれきっことしっとりきっこと。 両方あるから素敵なのだ、きっと。 みなさん、ぜひぜひお読みください。 96歳のお医者さん日野原重明さんの書いた「いま伝えたい 大切なことーいのち・時・平和」をじっくり読んでいる。平和をこんなふうに語ることができるなんてと感動をしている。 「いのち」と自分が自分で活用できる「時間」という言葉に、いのちをこんなふうに思うことができるのだと思った。 昨日お会いして対談をした環境ジャーナリスト枝広淳子さんも「いのちは時間」とおっしゃったので、驚いた。 有限のいのちをどう自分で、大事にして生きるか。 枝広さんは、自分のピークを80歳と思って生きているとおっしゃった。 うーん。わたしは、100歳くらいをピークに考えようかなあ。 日野原さんの本を味わって読んでいる。 |
エリザベス:ゴールデン・エイジ
2008 / 02 / 20 ( Wed ) 「エリザベス:ゴールデン・エイジ」
監督シェカール・カプール、主演ケイト・ブランシェット、クライブ・オーウェン、ジェフリー・ラッシュ、アビ−・コー二ッシュ、サマンサ・モートン 前作の「エリザベス」もすごかったが、今回の「ゴールデン・エイジ」も前作を上回って面白かった。 エリザベス女王は、卓抜した政治家である。 まず、第1に、暗殺をされなかった。 何度も何度も暗殺の危機があり、ねらわれていたのに、運もあろうが、暗殺をされなかった。 第2に、みごとに危機を回避をしている。 フランシス・ウォルシンガムが忠臣として全力で支えており、彼は、500人のスパイを各国の宮廷に送って、情報を収集し、反乱や謀反や攻撃の芽をみごとに摘んでいる。 ウォルシンガムは、おそろしく有能で、エリザベスを守るために、完璧に仕事をする。そして、そういう人物を身近に置き、重用をしたというのは、エリザベスの才能である。 第3に、バージン・クィーンということを最大限利用をしている。 エリザベスは、独身である。 結婚をしないとは言わない。 いろんな人とお見合いをする。映画では、神聖ローマ帝国の皇帝の弟とみんなの前でお見合いをする場面がある。 結婚をしないとは言わない。しかし、誰とも結婚をしない。 エリザベスが結婚をすることは難しい状況も生む。 彼女が結婚をするとなると、相手はヨーロッパの王族となる。そうすると、一歩間違えると、イギリスがその国の属国になるかもしれないのである。 エリザベスの母違いの姉イングランド女王メアリー1世は、スペイン王フィリップ2世と結婚をした。既に、姉は死亡しているが、フィリップ2世は、イギリスをカトリックにしようと宗教上の情熱を持ち、支配下におこうとする。そのことが、たっぷり映画で描かれている。 誰と結婚をするかによって、イングランドが他国に支配されることになりかねないのである。 結婚をしないと明言をせず、全方位外交をしたことと、結婚をしなかったことは、彼女の政治的手腕のすごさである。判断は、恐らく正しかったのである。 第4に、戦争をするときに総力戦をとったことである。 受刑者を解放し、従軍をさせる。 そして、海賊たるウォルター・ローリーを活躍させ、イングランドの船を焼き打ち船にして、スペインの船を焼き打ちし、全滅をさせてしまう。はっきり言って乱暴であり、奇襲攻撃である。本来の勢力から言えば、イギリス船は負けるはずなのに、勝つ。 第5に、白い馬にまたがり、甲冑に身を固め、イングランド軍を鼓舞する。先頭に立つ必死の覚悟である。 エリザベスは、海軍の一員として、船に乗ることはせず、陸上にいるのだが、エリザベスが、「わたしは先頭で戦う。」ということが、イングランド軍を鼓舞したこと間違いない。 エリザベス女王というと、わたしは、ある程度強い国になった後の女王と漠然と思っていた。 しかし、前作の「エリザベス」と今回の「エリザベス ゴールデン・エイジ」で、あるときは、不安に脅え、弱い心ですすり泣く女性を見て、ほっとするなり、親近感を感じた。 彼女は、多くの困難を、卓抜した政治力と勇気と知恵で乗り切っていく。 エリザベスの統治するイギリスは、当時弱体である。 カトリックであるスペインの侵略に常に脅えている。 しかも、足元も常にゆらいでいる。イギリスは、イギリス国教会という新教だが、国内にはカトリックもたくさんいる。カトリックの側は、カトリック教徒であるスコットランド女王であるメアリー・スチュアートと組んで、エリザベス女王体制の転覆をはかろうとしている。 新教対カトリックという宗教対立、宗教の信念による戦争であり、それだけに大変シビアである。 それにしてもエリザベスはすざまじい心の悩み、痛みと緊張のもとで生きていただろう。 「千日のアン」とい映画を見たことがある。 ヘンリー8世は、目茶苦茶で、アン・ブーリンに目をつけると(大体、アン・ブーリンの姉と付き合っていたりして、目茶苦茶だけれど)、妻キャサリン (母国はスペインである)と離婚が成立しないにもかかわらず、アン・ブーリンと勝手に結婚をしてしまう。大体、カトリックは、離婚を認めないので、これまた勝手に、イギリス国教会を作ってしまう。 そして、生まれてきた子が女の子で、エリザベスであり、次の子は、男の子だけれど、死産になったりすると、急速にアン・ブーリンから、心が離れ、ジェーン・シーモアに心を引かれる。 アン・ブーリンは、不貞の罪で、ヘンリー8世により、処刑をされる。 なんとその間、わずか1000日である。 入りくんでいるし、ヘンリー8世は、途中まで名君と言われていたが、とんでもないという感じである。 イギリスの議会にいくと、ヘンリー8世とその歴代の妻たちのポートレイトが飾ってあったっけ。早く死んだり、処刑をされたり、妻たちは、とんでもない目にあっている。 それはともあれ、エリザベスにしたら、自分の父親が、母親を処刑をし、その後、彼女は長いことロンドン塔に幽閉をされる。 いつだって、殺されるかもしれないと思っていただろうし、女王になってからも不安定である。 映画のなかでも、離婚を認めないカトリックの立場からすれば、エリザベスは、婚外子となるわけで、「正当性」がないという主張が様々な形でなされ、エリザベスは、中傷を浴びつづける。 自分を保護してくれる親はとっくの昔にいない。 また、エリザベス暗殺計画の責任で、メアリー・スチュアートをエリザベスは処刑をする。これは、新教対カトリックとも言える。 処刑にあたって、恐怖に脅えるエリザベスが映画で描かれている。 スペインとの戦争だって、よくまあイングランドは勝ったと言える。 エリザベスは、つぶやく。 「この戦争に負ければ、わたしは、スペインに連れていかれ、牢獄につながれ、死ぬのだ。」と。 毎回、毎回、自分の命がかかっていて、常に死との恐怖にさらされていたと言える。 そして、もちろんエリザベス自身も「謀反者」たちを処刑をしていくのであるが。 それにしても、この戦争といい、後ほどの無敵艦隊との戦争にしても、イギリスが勝つか、スペインが勝つかで、イギリスが新教になったか、カトリックになるかが決まったわけである。もし、イギリスがカトリックになっていたら、本当に世界は今とは随分違ったものになっていただろう。 歴史は、盤石なものではなく、極めて不安定で、頼りなく、しかもこれから作られるゼリーのようなものである。 未来に向かって作られるものであり、政治の判断によって、全く変わってくるということを痛感させられる。 人生も政治もアンガージュマン(投企)であり、未来にむかって、もっと言うと一瞬一瞬今まさに作られていくものである。 エリザベスは、ただただ強く、意思的な女性ではなく、天文学者に、運勢を聞く、不安を抱えた一人の人間でもある。そして、歴史を切り開いていく。 映画「恋に落ちたシェークスピア」でもエリザベス女王は出てくる。 権力や政治は、おどろくほど生臭く、すざまじい人間の営みであるということを、これでもか、これでもかと描いているのが、シェークスピアである。わたしは、政治家になって初めて、シェークスピアのすごさを改めて思った。「マくべス」しかり「リア王」しかり。 シェークスピアは、権力の何たるかが、権力のそばにいたからこそ、本当にわかっていたのだと思う。 この映画は、エリザベスが、ローリーを好きになることも、そのローリーが、エリザベスが心を許す侍女べスとひそかに結婚し、子どもを生むときのエリザベスの苦悩も描いている。 考えてみれば、今だって、ブットさんは暗殺をされ、フィリピンやインドネシアの活動家は殺されている。ウクライナの政治家でねらわれた人もいれば、殺された元スパイだっている。 キング牧師もケネディ大統領もロバート・ケネディも暗殺をされた。 世界では、殺されるジャーナリストも活動家もあとを絶たない。 そんななかに生きている。 政治のすさまじさを思うけれど、暗殺からはいいかげん人間は足を洗うべきだ。 それでもエリザベスが統治をし、生きた時代と今は全く違ってきている。少なくとも日本の今は、少なくとも建前は、民主主義だ。多くのことが違う。政治に関わると言っても、エリザベスとわたしは、月とすっぽん以上に比較すらできないくらいだ。 しかし、わたしは、エリザベスの知恵や勇気や不安を乗り越えていく力や決断力、政治にかかわる決意みたいなものに励まされた。もちろん政治家としてのエリザベスを全面的に肯定するものではないが。 そして、エリザベスのような人ですら、すすり泣くことがあったということに、ほっとさせられた。エリザベスの苦労や葛藤や危機に比べれば、わたしの悩みは、けし粒ほどのものだ。自分のかかえている悩みが小さなものに思えて、ものすごく元気になれる。 エリザベス:ゴールデン・エイジ 2008年2月18日より上映中 |
「ラスト、コ−ション」
2008 / 02 / 19 ( Tue ) 「ラスト、コ−ション」
アン・リー監督、主演トニー・レオン、タン・ウェイ 1942年の日本占領下での上海の話。 「ラスト」というのは、欲望。そして、コ−ションというのは、警戒。「欲望と警戒」と訳したらいいのだろうか。映画の原題は、 「色、戒」。 映画のパンフレットでは、アン・リー監督は、「人生への欲望」と「社会への警戒」と述べている。 チアチ−は、父親がイギリスに行ってしまい、イギリスで再婚をした。彼女もイギリスに行こうとしてが、うまくいかず、香港で大 学生活を送っている。 大学の演劇部には、兄を日本軍によって殺されたクァンがいて、情熱的にチアチーに語る。チアチーは、演劇部にはいり、抗日の演 劇のヒロインを演ずる。会場が、熱気を帯びる。 日本に協力をする中国人リーに対する暗殺計画を演劇部のメンバーで考え、作戦を立てる。チアチ−は、マイ夫人という輸入商の妻 に化け、リー夫人に接近し、マージャン仲間となり、機会をうかがうがうまくいかない。 3年の月日が流れ、舞台は上海へ。 リーは、日本の傀儡政権の悪名高い暗殺組織の特務機関のトップとなり、逮捕、殺害、暗殺、拷問をやっている。それらのシーンは、 出てこないが、虚無的な狂気を帯びた瞳を持つ警戒心の強い男をトニー・レオンが好演をしている。 もっと大きな組織の命令を受け、チアチーたちは、りー暗殺計画を改めて立てていく。 再びリーに接近をするチアチー。 純粋さと大胆さを合わせ持つチアチ−にリーはのめりこんでいく。 「おまえ以外は全く信用できない。」「おまえだけを信用している。」と伝えるリー。 自分も暗殺をし、敵だらけのなかで、それはリーの本心だっただろう。 また、リーにのめりこんでいくチアチー。 明日をもわからない命のなかで、それぞれはお互いにのめりこんでいくが、実は2人は敵で、チアチ−は、リーの暗殺の指令が早く 出ないか、出ないか待っているのである。そうでなければ、チアチーは、恋人のふりをし続け、歪んだ関係を続けなければならない。 日本料理店に、チアチーは、リーに呼ばれる。ちょうど、リーたちの宴会はお開きなになっていて、チアチーとリーは部屋に二人で いる。日本政府に協力する傀儡政権の特務機関のトップなのに、リーはこう言う。「アメリカが参戦をした。もう負けだ。にもかかわ らず日本はいい気なものだ。調子ぱずれの歌を歌っている。」 別の部屋では、ちょうど、芸者さんたちが歌と踊りをやっていて、日本の軍人たちは飲んで、騒いでいる。 戦争中でもこんなところもあったんだという感じ。当たり前だが、すべてのところのすべての時間が、戦闘という訳ではない。 そのとき、チアチーが、リーに対して、当時はやっていた中国の歌「天涯歌女」という流行歌を歌う。節をつけ、手振りを入れて。 チアチーが歌い終わると、リーは一人で拍手をして、抱きしめる。 戦争が日本側の負けになることを予測しながら、リーは、特務機関のトップとして、レジスタンスの中国人の人たちをどんどん問答 無用で殺していく。 このシーンは、リーとチアチーの中国人としてのアイデンティティが出ている場面である。もっと言うと、アン・リー監督のアイデ ンティティが出ている場面でもある。 この二人の関係がどうなるのか、それぞれがどうなるのか最後まで息づまる展開をとげていく。 チアチーは、大学生のときは、先輩のクァンにあこがれている素朴で可憐な女子学生である。すすめられるタバコも吸うことができ ないくらいだ。 しかし、香港から上海へ。 スパイ合戦と暗殺の町、世界中の人たちが住んでいるお洒落な町、そんな町で、プロのスパイとして、生きるなかで、変わっていく。 ひどく女っぽく、プロとして覚悟を決め、決然と生きるようになる。 アン・リー監督が作った「ブロックバック・マウンティン」の映画も大好きだった。 「ラスト、コ−ション」と「ブロックバック・マウンティン」も人間の実存と心のなかを描いている映画である。 表面からではわからない人間の心の奥底の悲しみや愛情を描いている。 表面的なことでは見えないものを描いている。 人間の性愛の根源的な意味を描いている。 おぇっとくるような人間の心のマグマと生きるということを描いている。 他人にとっては、理解できないことかもしれないし、歪んだ愛としかとらえられないかもしれない。しかし真実は、他の人には見え ず、心の奥底にあるのだということを描いているように思う。 チアチーは、自分の信ずる正義に基づく使命感を持っている。 彼女にとって何よりも大切な使命のために、すべてを犠牲にする。自分のすべてのもの、生きること、命、体も顔も感情も幸せも人 を思う気持ちも。人生すべてを使命のために使っていく。 個人の使命と組織の論理とそして、実存と。 自分の内面も体も含めて全部さらけ出すようにしか生きられない状況のなかで、精一杯生きようとする。 チアチーもリーも自分以外は信ずることができない状況にいる。常にまわりを伺い、極度の警戒心を持って生きている。リラックス などしない。リーの妻は、毎日、金持ちの女性たちと家でマージャンをし、おいしい中華料理を食べ、談笑をしている。指には、大き な指輪。これが、戦争の中国人の姿なのと驚いた。当たり前だが、日本に協力する中国人がいたからこそ、そういう中国人を作ったか らこそ、戦争だとも言える。リーは、当たり前だが、妻に何も話さず、家ではひきこもっているだけだ。リーもチアチーも常に死と隣 合わせである。いつ自分が殺されるかわからない。 そんな息づまるような状況で、相手にのめりこんでいくのである。 過激なベッドシーンが話題になっているけれど、なぜ二人がのめりこんでいくのかを説得力を持って描くためには、ベッドシーンは 必要だったのではないか。もちろん商業的なものもあっただろうが。 人間ののっぴきならない内面や実存を描くのに必要だったのである。 人間は、それほど論理的でも完璧でもない。 限られた時代状況で、おかしな人生を送るのである。 アン・リー監督は、なぜ「売国奴」とも言えるリー、中国人でありながら、傀儡政権のもとで、同国人を殺していくリーを主人公に したのだろうか。 りーも時代状況のなかで、歪んでいく人生を生きる。 誰も信用せず、誰からも信用をされない信じられないくらい孤独で、凄惨な人生。彼が、彼が思うところの「可憐」な女性をひたす ら愛し、指輪をプレゼントしようとする。 「愛」を求めるが、その相手こそは、自分を殺そうと計画をし、接近をしてきた相手なのである。 人間の奥底は、寂しいのであると言っても映画の感想からは遠のくような気がする。 しかし、どうしようもない人間の存在の奥には、他の人には、決して見えない「愛」があり、また、実存があるのである。 「ブロックバック・マウンティン」は、政治や社会的なものを一切排除して、二人のゲイにとっての理想郷である山の風景と二人の 心を描いていた。 今回の「ラスト、コ−ション」は、時代と政治も描いている。 その分、「恋愛」映画の純粋さは薄くなったようにも一見感じられる。しかし、時代状況と使命感と実存を描き、使命感のためにす べてをコントロールし、捨てていく女を描いて、逆にわたしは切ないなあと思った。 両方の映画とも表面的には人に見えない人間の実存と愛を描いている。 一見特殊とも言えるが、実は普遍的な人間にとって生きるとは何か、心の奥底に正直に生きるとは何か、実存と生存と愛と性愛を描 いている。人間は、現実の生活では制約だらけである。何かの役割、使命を持ち、日常生活に追われ、果たすべき役割がある。 にもかかわらず人間としての根本を持ち、苦しみ、愛し、また、時代を生きようとする。「生きるとは一体なんなのか?」というこ とをアン・リー監督は、題材を変えて、あくなき追求をしているように思える。 アン・リー監督からは眼を離せない。 そして、わたしは、この「ラスト、コ−ション」を見て、「愛の嵐」を思い出した。ナチ・ユダヤの男性とユダヤの少女の愛を描い た映画である。 少女は、大人の女性になり、二人は再会をする。シャーロット・ランプリングが、精神のかたまりのような女性を演じていた。 考えてみたら、「愛の嵐」も「ラスト、コ−ション」も当時の権力者の側を男性が演じ、弾圧される側を女性が演じている。 「ナチスの女性」と「ユダヤの男性」という組み合わせも「日本の女性」と「中国の男性」という組み合わせもあんまり見たことが ない。 「24時間の情事」と「愛人」は、いずれもマリグリット・デュラスの作品で、映画化されているが、これらは、アジアの男性とフ ランスの女性の組み合わせだが、戦争のもとでの話ではない。 最近見た「サラエボの花」も侵略者は男性であり、強姦されるのは、女性の側である。 「愛の嵐」も名作もしれないけれど、わたしは、この「ラスト、コ−ション」に進化を見る。 「愛の嵐」は、ユダヤの少女は、当初全くの受身である。この「ラスト、コ−ション」は、まだ少女の面影を持つ女性の側が、仕掛 けていくものである。アン・リー監督が、映画のパンフレットでも述べているとおり、女性の視点から描いている。 その意味では、月日が流れ、様々な映画は、やはりフェミニズムを通過しているのである。 http://www.wisepolicy.com/lust_caution/ 2008年2月2日より上映中 |


