
2月4日(日)
柳沢大臣の発言を聞いて、本当に驚きました。
戦後一体何をやってきたのだろう!という根本的な怒りです。最低の絶対言ってはいけない発言。厚生労働大臣の発言であり、こんな人に厚生労働大臣をまかせることはできないと思います。
まず、第1に、「女性は子どもを産む機械」「子どもを産む装置」と言う言葉が、女性の人格を無視する言葉であることは間違いありません。
「えっ、産む機械?」と本当に驚きました。
わたしのまわりには、子どもを産んだ人、産まなかった人、産もうとしたがうまく子どもを持つことのできなかった人、不妊治療に苦しんだ人、仕事との両立で産むかどうか迷っている人、これから産む人、流産した人・・・・・・いろんな人がいます。
一人ひとりの女性には、一人ひとり選択があり、思いがあり、人生があります。
もっと言えば、その女性のまわりの男性にもそれぞれ思いがある。今回、妻の出産に立ちあった男性、あるいは子どもに恵まれなくて、夫婦で苦しんだという男性・・
・・いろんな男性から、「ひどい発言で許せない。」と声をかけられました。
女性たちは、ずっと「わたしたちは産む機械ではない。」と世界中で、そして、日本で声を上げ、闘ってきました。
それを全く無にする発言です。
第2に、いかに国の子育て支援、少子化政策が当事者不在で行われているかをはっきり露呈しました。
女性たちは、謝罪なんていらないのです。
政治にあまり関心がなかった女性たちのなかから、「えっ、こんな人が厚生労働大臣だったの!こんな考えでやっていたの!」と当事者不在の政策に怒りが出てきています。
「女性は産む機械」という言葉があまりに有名になったけれど、この後に続く部分も大問題です。
「15から50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけれど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う。」と言ったのです。
女性に対して、一人頭頑張ってもらうと言ったのです。
少子化は女性ががんばらないから起きたのでしょうか。
少子化の原因を女性ががんばらないからということに求めるのは、明確に間違っています。
厚生労働大臣、国の仕事は、女性たちが、男性たちが、子どもを産み、育てることがもっとできる環境を作ることです。国の責任を放棄して、一人頭産めというのはひどい話です。
わたしは、子どもがいたらハッピーだと思い、子どもを産みました。多くの女性たちが、子どもを持つことをハッピーだと思えれば、子どもを持つでしょう。今は、女性のがんばりにだけ求められているので、ハッピーに思えないのです。
第3に、柳沢発言は、実は、安倍内閣の人間観、政治観を示しています。だからこそ問題点をきちんと指摘したいと考えます。
1月29日(月)に、柳沢大臣に辞職を求める文書を手渡し、辞職を求めました。そのとき、大臣は、「統計学上のことを言ったのだ。」ということを言いました。わたしは、わかっていないなあと思いました。
一人ひとりの人生と思いがあるのに、上から見下されて、統計学上の処理として言われているので、みんな怒ったのです。
日本は、戦前は兵隊さんを作るために「産めよ、ふやせよ」政策がとられました。60年前、女性たちは、「もうわたしたちは子どもを産む機械ではない。」と決意をしました。そして、60年前、女性たちは、日本国憲法によって、ようやく選挙権、被選挙権を取得し、憲法24条も獲得しました。
国会に女性議員が登場をしたのは、60年前です。
柳沢発言を容認することは、わたしは、「日本の女性国会議員は何をやっているのだ。日本の国会議員は何をやっているのだ。」と言われることだと思います。
そんな思いで今がんばっています。
柳沢大臣の発言は、上から見下している発言だと言いました。一人ひとりが統計学上にしか見えず、「一人頭がんばって欲しい。」と言うのだから、見下ろしているとしかいいようがありません。
そして、女性たちが「子どもを産む機械」でないように、労働者も「24時間働ける機械」でも「商品」でもありません。厚生労働省が、日本版エクゼンプション導入のために、労働基準法改悪法案を今国会提出をするか、参議院選挙後、提出すると言われています。
この日本版エクゼンプションは、一日の労働時間の規制をなくしたしまうもので、労働者を残業代なくして際限なく働かせることができるものです。
ここには、一人ひとりの人生や生活や健康や家族に対する配慮は一切ありません。
健康を害すれば、それは本人の自己責任となっていくでしょう。子どもを産むことが、女性の頑張りに帰せられているように。
「産む機械」から産まれた子どもは、「工業製品」というのでしょうか。
しかし、考えてみれば、教育再生会議で提案されている習熟度別クラスや外部監査制度は、子どもたちの「品質管理」のようにも思えます。
また、確かに他の子どもたちをいじめたり、暴力を振るう子どもは、問題です。しかし、「出席停止」は、みんなの邪魔になる子どもは、ベルトコンベア-から排除してしまうぞと言う意味にも思えてきます。
教師の免許更新制は、先生の「品質管理」であり、国のために不都合な教師は、排除するぞと言う意思とも考えられます。
わたしが、柳沢発言で一番違和感を持つのは、女性たちを完全に「客体」に考えていることです。
そして、安倍政権のもとで、働く人たちも子どもたちも「客体」と考えられているのではないでしようか。
子どもたちは、施政方針演説のもとで、そして、教育基本法改悪法のもとで、規律や愛国心を教え込まれる対象です。国の「客体」です。
先日、アメリカの歌手ニール・ヤングが作ったインターネット上のビデオを見ました。CNNをもじった「戦争とともにいきる」という番組の構成をとり、番組の下のほうには、株価の動きではなく、米軍の死者の数が示されていきます。
一人ひとり人生があったはずが、死体となって帰国し、埋葬されていきます。若者一ひとりの命がどう取り扱われているのか、命は数字ではないぞということがひしひしと伝わってきます。愛国的反戦というビデオでした。
人の命が国家によって大きく失われるのは、戦争です。
「国の客体」と言ったけれど、いろんなものが、人が、国にとって有用がどうかという観点から見られているのではないでしようか。
政治の場面で、法律がどんどん作られ、制度が改悪され、高齢者や障害者、リハビリを必要とする人たちなどがどんどん切り捨てられていいてます。
今ここで、ナチス・ドイツを引用することは荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし、ナチス・ドイツのもとで、障害者の人たちが虐殺をされ、また優生学的な見地から子どもたちが扱われました。
女性たちは、まさに、「優秀な子どもを産む機械」とされたのです。
「産む機械」と言う発想は、ファシズムにつながるとわたしは思います。
「女性は産む機械」という考え方は、また自民党新憲法草案につながっています。愛国心を憲法前文で、国民に課し、また、海外で自衛隊が米軍とともに戦闘行為をすることを可能にしています。
まさに、国民は「客体」です。
自民党新憲法草案は、国が国民を上から見下すものではないでしょうか。
わたしは、安倍総理の「美しい国」にものすごく違和感を持ちました。
外国を訪れて思うのは、どの国もどの自然もとっても美しいということです。
「美しい国」ということが観光のキャチフレーズで使われるのならわかります。また、写真家や監督などが言うのならわかります。
しかし、政治家が言うので違和感があるのです。
「美しい国」というのは、上から、風景を見ているとしか言いようがありません。
しかし、人々の暮らしは、ごみごみしていたり、ドタバタしていたりして、一人ひとり悩みや苦労を抱えて、苦しんでいたりしています。
子育てをすれば、「美しい部屋」なんてありようがなく、おもちゃやいろんなもので散らかり放題。洗濯機をまわしながら、子どもに話しかけて、ごはんを作るような生活は、「美しく」はないけれど、楽しいものです。
安倍総理の「美しい国」とは、国民一人ひとりの生活に寄り添うことなく、生活を踏みにじって、全く恥じないゴーマン政治です。人々の暮らしや苦しみを見ようともしないし、理解しようとも、手をさしのべようともしていません。国民は、「風景」か、国に奉仕するものでしかありません。わたしは、人々が、物として扱われていることに怒っています。
柳沢大臣のもとで、わたしは、参議院の厚生労働委員会で、質疑をするのでしょうか。
どんな少子化政策を打ち出しても説得力がないとわたしは思います。信頼関係を築いていくことは、不可能です。
発言に怒っているだけではなく、その本質に怒っているのです。
ゴーマン政治をゴーマンのまま続けさせてはいけないと考えています。
2月2日 有楽町での街頭演説


柳沢大臣の発言を聞いて、本当に驚きました。
戦後一体何をやってきたのだろう!という根本的な怒りです。最低の絶対言ってはいけない発言。厚生労働大臣の発言であり、こんな人に厚生労働大臣をまかせることはできないと思います。
まず、第1に、「女性は子どもを産む機械」「子どもを産む装置」と言う言葉が、女性の人格を無視する言葉であることは間違いありません。
「えっ、産む機械?」と本当に驚きました。
わたしのまわりには、子どもを産んだ人、産まなかった人、産もうとしたがうまく子どもを持つことのできなかった人、不妊治療に苦しんだ人、仕事との両立で産むかどうか迷っている人、これから産む人、流産した人・・・・・・いろんな人がいます。
一人ひとりの女性には、一人ひとり選択があり、思いがあり、人生があります。
もっと言えば、その女性のまわりの男性にもそれぞれ思いがある。今回、妻の出産に立ちあった男性、あるいは子どもに恵まれなくて、夫婦で苦しんだという男性・・
・・いろんな男性から、「ひどい発言で許せない。」と声をかけられました。
女性たちは、ずっと「わたしたちは産む機械ではない。」と世界中で、そして、日本で声を上げ、闘ってきました。
それを全く無にする発言です。
第2に、いかに国の子育て支援、少子化政策が当事者不在で行われているかをはっきり露呈しました。
女性たちは、謝罪なんていらないのです。
政治にあまり関心がなかった女性たちのなかから、「えっ、こんな人が厚生労働大臣だったの!こんな考えでやっていたの!」と当事者不在の政策に怒りが出てきています。
「女性は産む機械」という言葉があまりに有名になったけれど、この後に続く部分も大問題です。
「15から50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけれど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う。」と言ったのです。
女性に対して、一人頭頑張ってもらうと言ったのです。
少子化は女性ががんばらないから起きたのでしょうか。
少子化の原因を女性ががんばらないからということに求めるのは、明確に間違っています。
厚生労働大臣、国の仕事は、女性たちが、男性たちが、子どもを産み、育てることがもっとできる環境を作ることです。国の責任を放棄して、一人頭産めというのはひどい話です。
わたしは、子どもがいたらハッピーだと思い、子どもを産みました。多くの女性たちが、子どもを持つことをハッピーだと思えれば、子どもを持つでしょう。今は、女性のがんばりにだけ求められているので、ハッピーに思えないのです。
第3に、柳沢発言は、実は、安倍内閣の人間観、政治観を示しています。だからこそ問題点をきちんと指摘したいと考えます。
1月29日(月)に、柳沢大臣に辞職を求める文書を手渡し、辞職を求めました。そのとき、大臣は、「統計学上のことを言ったのだ。」ということを言いました。わたしは、わかっていないなあと思いました。
一人ひとりの人生と思いがあるのに、上から見下されて、統計学上の処理として言われているので、みんな怒ったのです。
日本は、戦前は兵隊さんを作るために「産めよ、ふやせよ」政策がとられました。60年前、女性たちは、「もうわたしたちは子どもを産む機械ではない。」と決意をしました。そして、60年前、女性たちは、日本国憲法によって、ようやく選挙権、被選挙権を取得し、憲法24条も獲得しました。
国会に女性議員が登場をしたのは、60年前です。
柳沢発言を容認することは、わたしは、「日本の女性国会議員は何をやっているのだ。日本の国会議員は何をやっているのだ。」と言われることだと思います。
そんな思いで今がんばっています。
柳沢大臣の発言は、上から見下している発言だと言いました。一人ひとりが統計学上にしか見えず、「一人頭がんばって欲しい。」と言うのだから、見下ろしているとしかいいようがありません。
そして、女性たちが「子どもを産む機械」でないように、労働者も「24時間働ける機械」でも「商品」でもありません。厚生労働省が、日本版エクゼンプション導入のために、労働基準法改悪法案を今国会提出をするか、参議院選挙後、提出すると言われています。
この日本版エクゼンプションは、一日の労働時間の規制をなくしたしまうもので、労働者を残業代なくして際限なく働かせることができるものです。
ここには、一人ひとりの人生や生活や健康や家族に対する配慮は一切ありません。
健康を害すれば、それは本人の自己責任となっていくでしょう。子どもを産むことが、女性の頑張りに帰せられているように。
「産む機械」から産まれた子どもは、「工業製品」というのでしょうか。
しかし、考えてみれば、教育再生会議で提案されている習熟度別クラスや外部監査制度は、子どもたちの「品質管理」のようにも思えます。
また、確かに他の子どもたちをいじめたり、暴力を振るう子どもは、問題です。しかし、「出席停止」は、みんなの邪魔になる子どもは、ベルトコンベア-から排除してしまうぞと言う意味にも思えてきます。
教師の免許更新制は、先生の「品質管理」であり、国のために不都合な教師は、排除するぞと言う意思とも考えられます。
わたしが、柳沢発言で一番違和感を持つのは、女性たちを完全に「客体」に考えていることです。
そして、安倍政権のもとで、働く人たちも子どもたちも「客体」と考えられているのではないでしようか。
子どもたちは、施政方針演説のもとで、そして、教育基本法改悪法のもとで、規律や愛国心を教え込まれる対象です。国の「客体」です。
先日、アメリカの歌手ニール・ヤングが作ったインターネット上のビデオを見ました。CNNをもじった「戦争とともにいきる」という番組の構成をとり、番組の下のほうには、株価の動きではなく、米軍の死者の数が示されていきます。
一人ひとり人生があったはずが、死体となって帰国し、埋葬されていきます。若者一ひとりの命がどう取り扱われているのか、命は数字ではないぞということがひしひしと伝わってきます。愛国的反戦というビデオでした。
人の命が国家によって大きく失われるのは、戦争です。
「国の客体」と言ったけれど、いろんなものが、人が、国にとって有用がどうかという観点から見られているのではないでしようか。
政治の場面で、法律がどんどん作られ、制度が改悪され、高齢者や障害者、リハビリを必要とする人たちなどがどんどん切り捨てられていいてます。
今ここで、ナチス・ドイツを引用することは荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし、ナチス・ドイツのもとで、障害者の人たちが虐殺をされ、また優生学的な見地から子どもたちが扱われました。
女性たちは、まさに、「優秀な子どもを産む機械」とされたのです。
「産む機械」と言う発想は、ファシズムにつながるとわたしは思います。
「女性は産む機械」という考え方は、また自民党新憲法草案につながっています。愛国心を憲法前文で、国民に課し、また、海外で自衛隊が米軍とともに戦闘行為をすることを可能にしています。
まさに、国民は「客体」です。
自民党新憲法草案は、国が国民を上から見下すものではないでしょうか。
わたしは、安倍総理の「美しい国」にものすごく違和感を持ちました。
外国を訪れて思うのは、どの国もどの自然もとっても美しいということです。
「美しい国」ということが観光のキャチフレーズで使われるのならわかります。また、写真家や監督などが言うのならわかります。
しかし、政治家が言うので違和感があるのです。
「美しい国」というのは、上から、風景を見ているとしか言いようがありません。
しかし、人々の暮らしは、ごみごみしていたり、ドタバタしていたりして、一人ひとり悩みや苦労を抱えて、苦しんでいたりしています。
子育てをすれば、「美しい部屋」なんてありようがなく、おもちゃやいろんなもので散らかり放題。洗濯機をまわしながら、子どもに話しかけて、ごはんを作るような生活は、「美しく」はないけれど、楽しいものです。
安倍総理の「美しい国」とは、国民一人ひとりの生活に寄り添うことなく、生活を踏みにじって、全く恥じないゴーマン政治です。人々の暮らしや苦しみを見ようともしないし、理解しようとも、手をさしのべようともしていません。国民は、「風景」か、国に奉仕するものでしかありません。わたしは、人々が、物として扱われていることに怒っています。
柳沢大臣のもとで、わたしは、参議院の厚生労働委員会で、質疑をするのでしょうか。
どんな少子化政策を打ち出しても説得力がないとわたしは思います。信頼関係を築いていくことは、不可能です。
発言に怒っているだけではなく、その本質に怒っているのです。
ゴーマン政治をゴーマンのまま続けさせてはいけないと考えています。
2月2日 有楽町での街頭演説


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