
8月10日(日)
「スカイ・クロラ」
押井守監督、声・菊地凛子、加瀬亮、谷原章介
アニメというよりも、実写を感ずる大迫力。
戦争や平和や生きるということをアニメを見た後、ずっーと考えている。
「ダーク・エンジェル」や「ブレード・ランナー」を思い出し、また、特攻隊のことも思い出した。
世界は、平和になり、もはや「ショーとしての戦争」しか存在しない。
戦争は、国家と戦争請負会社のためのショーとしての戦争になっている。
戦争請負会社は、ある意味ぐるで、終わりのない戦争をしている。
力が均衡したほうがいいのだ。
公共事業としての戦争。意味のない、終わらせないための戦争。
わたしは、イラク戦争のことを思い出した。
何のためにやっているのは、もはやわからなくなっている戦争。かつてのベトナム戦争みたいに。しかし、ここで、描かれている戦争は、イラク戦争などのように、一般の人たちを空爆をしたり、攻撃をしたりはしない。
「キルドレ」と呼ばれる人たちが、お互い戦闘機で戦い続けるのである。
新薬の精製のなかで、なぜか死なない子どもたちが誕生をしてしまう。
「キルドレ」。16歳から、17歳。それ以上は、成長をせず、戦死をしないかぎり、死なない。
かつての特攻隊や人間魚雷もそうだが、狭い場所に押し込まれ、闘うのだから、小柄で、若くて、柔軟で、純粋で、生活感がなく、子どもなどいないほうがいい。
だからこそ、大人ではなく、しかも永遠の命を持つ「キルドレ」が、終わりのない戦争には、うってつけなのだ。
カンナミ・ユーイチは、基地に、戦闘機に乗ってやってくる。
ここの基地の司令官は、女性のクサナギ・スイトである。
エース・パイロットであったクサナギは、子どもがいると噂され、「キルドレ」のなかでも成熟しており、自分が何ものかわかっており、表に決して出さない悩みも深い。
戦闘機が、撃沈され、ぼろぼろになり、戦死をしたキルドレが、布にくるまれ、担架で運び出されるシーンがある。それを見た一般の人が言う。「かわいそう。」と。それを聞いたクサナギが、切れてしまって、怒って、言う。「かわいそうなんかじゃない。侮辱だ。」と。ひとつのクライマックスのシーンだ。
そんなことを死んだ人間に対して言うなと。
「ショーとしての戦争」を支えているのは、実は一般の人々である。
人々は、かわいそうなどというが、キルドレを必要とし、支えているのである。
おためごかしに「かわいそう」などと言うな。
強い、深い苦しみを持つクサナギ。
強いヒロイン。
キルドレは、戦争の「兵器」である。
戦死をしても、新しい肉体に、癖や、戦闘能力は、引き継がれる。
新しい出会いを繰り返し、愛することを繰り返し、そして、見送り、戦死の報を聞く。
同じ人と愛を繰り返す。
あまりに愛しているので、いっそのこと自分の手で殺したいとさえ思う切ないラブ・ストーリーだ。
カンナミ・ユーイチは、昔の記憶があんまりない。ぼんやりしている。ひちすら優秀なパイロットだ。
名前の優一の通り、ひたすら優しい。
加瀬亮の声に、癒される。
カンナミ・ユーイチは、戦闘機で飛びながら、地上の景色を見て言う。
「いつもと通る道でも違うところを踏んで歩くことができる
いつも通る道だからって景色は同じじゃない」
電車で通勤をするときに、何百回見た景色も、なぜか毎日新鮮で、何か発見がある。
毎日、景色も、人も少しずつ違う。
毎日、何かをプレゼントしてもらえる。
永遠のいのちと言っても、そんな喜びやプレゼントの蓄積だ。
わたしには、この映画は、反戦映画に思える。
そして、退屈で、かわりばえしなくて、どうってことのない、なんとなく手応えがないように思える毎日も、捨てたものではなく、生きるに値すると言ってくれているような気がする。
カンナミ・ユーイチは、最後に、飛び立つ前に、クサナギ・スイトに、言う。
「何かを変えるために、きみは生きろ。」と。
何かを変えるために、きみは生きろということに尽きる。
生きろと言うことだ。
これは、あまりに辛いので、クサナギ・スイトが、カンナミ・ユーイチニ対して、「殺してくれない?」と言ったことに対する返事である。
カンナミ・ユーイチは、ティーチャーを撃沈できただろうか。
殺人マシーンとして、永遠の命を生きるのは、あまりに辛い。
「変えるために、きみは生きろ。」とはどういうことだろうか。
超えられない存在である大人の男であるティーチャーが、いなくなれば、終わりなき戦争が終わるのだろうか。
クサナギ・スイトは、カンナミ・ユーイチと、違う出会いができるだろうか。
それにしても、わたしは、クサナギ・スイトの強さを少しは見習いたい。
「スカイ・クロラ」
押井守監督、声・菊地凛子、加瀬亮、谷原章介
アニメというよりも、実写を感ずる大迫力。
戦争や平和や生きるということをアニメを見た後、ずっーと考えている。
「ダーク・エンジェル」や「ブレード・ランナー」を思い出し、また、特攻隊のことも思い出した。
世界は、平和になり、もはや「ショーとしての戦争」しか存在しない。
戦争は、国家と戦争請負会社のためのショーとしての戦争になっている。
戦争請負会社は、ある意味ぐるで、終わりのない戦争をしている。
力が均衡したほうがいいのだ。
公共事業としての戦争。意味のない、終わらせないための戦争。
わたしは、イラク戦争のことを思い出した。
何のためにやっているのは、もはやわからなくなっている戦争。かつてのベトナム戦争みたいに。しかし、ここで、描かれている戦争は、イラク戦争などのように、一般の人たちを空爆をしたり、攻撃をしたりはしない。
「キルドレ」と呼ばれる人たちが、お互い戦闘機で戦い続けるのである。
新薬の精製のなかで、なぜか死なない子どもたちが誕生をしてしまう。
「キルドレ」。16歳から、17歳。それ以上は、成長をせず、戦死をしないかぎり、死なない。
かつての特攻隊や人間魚雷もそうだが、狭い場所に押し込まれ、闘うのだから、小柄で、若くて、柔軟で、純粋で、生活感がなく、子どもなどいないほうがいい。
だからこそ、大人ではなく、しかも永遠の命を持つ「キルドレ」が、終わりのない戦争には、うってつけなのだ。
カンナミ・ユーイチは、基地に、戦闘機に乗ってやってくる。
ここの基地の司令官は、女性のクサナギ・スイトである。
エース・パイロットであったクサナギは、子どもがいると噂され、「キルドレ」のなかでも成熟しており、自分が何ものかわかっており、表に決して出さない悩みも深い。
戦闘機が、撃沈され、ぼろぼろになり、戦死をしたキルドレが、布にくるまれ、担架で運び出されるシーンがある。それを見た一般の人が言う。「かわいそう。」と。それを聞いたクサナギが、切れてしまって、怒って、言う。「かわいそうなんかじゃない。侮辱だ。」と。ひとつのクライマックスのシーンだ。
そんなことを死んだ人間に対して言うなと。
「ショーとしての戦争」を支えているのは、実は一般の人々である。
人々は、かわいそうなどというが、キルドレを必要とし、支えているのである。
おためごかしに「かわいそう」などと言うな。
強い、深い苦しみを持つクサナギ。
強いヒロイン。
キルドレは、戦争の「兵器」である。
戦死をしても、新しい肉体に、癖や、戦闘能力は、引き継がれる。
新しい出会いを繰り返し、愛することを繰り返し、そして、見送り、戦死の報を聞く。
同じ人と愛を繰り返す。
あまりに愛しているので、いっそのこと自分の手で殺したいとさえ思う切ないラブ・ストーリーだ。
カンナミ・ユーイチは、昔の記憶があんまりない。ぼんやりしている。ひちすら優秀なパイロットだ。
名前の優一の通り、ひたすら優しい。
加瀬亮の声に、癒される。
カンナミ・ユーイチは、戦闘機で飛びながら、地上の景色を見て言う。
「いつもと通る道でも違うところを踏んで歩くことができる
いつも通る道だからって景色は同じじゃない」
電車で通勤をするときに、何百回見た景色も、なぜか毎日新鮮で、何か発見がある。
毎日、景色も、人も少しずつ違う。
毎日、何かをプレゼントしてもらえる。
永遠のいのちと言っても、そんな喜びやプレゼントの蓄積だ。
わたしには、この映画は、反戦映画に思える。
そして、退屈で、かわりばえしなくて、どうってことのない、なんとなく手応えがないように思える毎日も、捨てたものではなく、生きるに値すると言ってくれているような気がする。
カンナミ・ユーイチは、最後に、飛び立つ前に、クサナギ・スイトに、言う。
「何かを変えるために、きみは生きろ。」と。
何かを変えるために、きみは生きろということに尽きる。
生きろと言うことだ。
これは、あまりに辛いので、クサナギ・スイトが、カンナミ・ユーイチニ対して、「殺してくれない?」と言ったことに対する返事である。
カンナミ・ユーイチは、ティーチャーを撃沈できただろうか。
殺人マシーンとして、永遠の命を生きるのは、あまりに辛い。
「変えるために、きみは生きろ。」とはどういうことだろうか。
超えられない存在である大人の男であるティーチャーが、いなくなれば、終わりなき戦争が終わるのだろうか。
クサナギ・スイトは、カンナミ・ユーイチと、違う出会いができるだろうか。
それにしても、わたしは、クサナギ・スイトの強さを少しは見習いたい。
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