
9月28日(日)
土井たか子さんが9月20日亡くなられました。
本当にショックを受けています。
護憲を貫き、「強きをくじき、弱きを助ける」と人々のために、尽くして、政治に邁進してきた素晴らしい人生です。
女性政治家として、政治家として、戦後の政治を牽引してきました。
1989年、土井たか子さんが社会党の委員長になったときに、女性たちが、市民たちが集会を開きました。
私は、その集会に、一市民として参加をしました。集会が終わった後、出口のところで、土井たか子さんと握手をしました。天にも昇る心地で、背中に羽が生えて、空を駆けめぐって、飛んで帰っていくような気分がしました。
政治は、遠いところにあると思っていたのに、また古臭い男性たちがやっていくものだと思っていたのに、政治がぐぐっと近くなりました。政治がとてつもなく近くなりました。
当時、そう思った女性たちも本当に多かったのではないでしょうか。
国会議員や自治体議員に、女性がたくさん当選をしました。
土井さんの存在が、活躍が、政治の世界にもっと女性をという多くの人たちの願いを実現をしていきました。
女性の弁護士たちで、土井たか子を支える女性弁護士の会を作り、選択的夫婦別姓を含めて様々な提言をしてきました。
1993年の衆議院選挙の時に、土井さんの応援に、兵庫県に行ったことが貴重な思い出です。土井さんと中村敦夫さんとわたしの3人で、演説をしてまわりました。土井さんは、大人気で、団地で、演説を始めると、たくさんの女性たちがどんどん出てくると言う状況でした。土井さんの演説は、みんなを励ます演説で、素晴らしい中身でした。
私は、1998年、土井たか子さんにこう言われました。
「これから有事立法が五月雨のように出てくる。そんな国会の中で一緒に頑張って欲しい。」
私は、「国会の中に、憲法9条を変えないという政党がなくなったら困る」という思いから、立候補を決意しました。
土井さんは、私が議員になる生みの親です。
政治状況は、土井さんの言う通りになりました。
1999年は、周辺事態法、盗聴法、住民基本台帳法の改悪法、日の丸君が代国旗国歌法、国会法の改悪法の悪法5本が成立をしました。
そして、立候補する時も、幹事長になる時も、党首になる時も、土井たか子さんの熱い説得がありました。私の人生の重要な節目で、土井たか子さんの説得を受けました。
ですから、土井さんは、生みの親であると同時に育ての親でもあるわけです。
土井たか子さんなくして、私の人生はありません。心から土井たか子さんに感謝をしています。
政治の親、政治の母親のような存在です。
だからこそ、亡くなられて、大変ショックを受けています。
土井さんは、日本の護憲のシンボルであり、憲法の守護神でした。国会の中で、仁王立ちでがんばっていたと思います。こんな時代だからこそ、もっともっと長生きをして欲しかったです。
また、女性の政治家としても傑出していました。
女性初の政党の委員長、そして衆議院議長を務めました。
女性が輝く、女性が政治の場所で輝く、そんなシンボルでした。
宝塚の男役のようだとよく言われていました。オーラがあり、輝いていました。また、たくさんの街頭演説を一緒にやりましたが、パワーがあり、人を励ます、素晴らしい中身でした。人々への愛情に溢れているそんな演説でした。
土井さんは歌が大変上手でした。小林カツ代さんが作った神楽坂女声合唱団に一緒に入りました。「緑の星に」というCDがありますが、土井さんはソロで歌を歌っています。
また、私が1年にいっぺんやっているパーティーで、気軽に、アカペラで、たくさんの歌をその場で歌ってくれました。
とりわけ「マイウエイ」は、土井さんの、わが道を行くという気概に溢れた素晴らしい歌いっぷりでした。
連合会長であった笹森さんと土井さんとでカラオケをやったことがあります。実は、笹森さんも大変歌の上手な方でした。いつだったか、カラオケの時に、美空ひばりさんの歌を歌ったことなどを覚えています。
土井さんの護憲の原点は、土井さん自身が体験をした空襲などの戦争の体験ではないでしょうか。
お医者さんであったお父さんの手伝いをした時の話などを聞いています。土井さんは、自分の体験から、まっすぐ、熱く護憲を貫き、そのために国会で体を張って、粉骨砕身がんばり抜いた人です。
そして、土井さんが、衆議院議長から、社民党党首になったときに行われた衆議院議員選挙の時のスローガンは、「市民との絆」です。
市民との絆を求めて、政治活動をされたと思います。
沖縄の辺野古の海に、海上基地を建てさせないために、テントがはられています。沖縄のおじいやおばあがそこでがんばり続けています。そこにも、土井さんの色紙がありました。
「美ら海に基地はいらない」といった中身だったと思います。
土井さんのきれいな字で美ら海と書いてありました。
政治の世界で、土井さんは、言葉に責任を持ち、ぶれずに、体を張ってきたと思います。
これから、多くの人と、憲法を守る、憲法を活かすという立場で、土井たか子さんの遺志を多くの人としっかり受け継いでいきます。
土井たか子さん、本当にありがとうございました。
こころから感謝をしています。
土井たか子さんが9月20日亡くなられました。
本当にショックを受けています。
護憲を貫き、「強きをくじき、弱きを助ける」と人々のために、尽くして、政治に邁進してきた素晴らしい人生です。
女性政治家として、政治家として、戦後の政治を牽引してきました。
1989年、土井たか子さんが社会党の委員長になったときに、女性たちが、市民たちが集会を開きました。
私は、その集会に、一市民として参加をしました。集会が終わった後、出口のところで、土井たか子さんと握手をしました。天にも昇る心地で、背中に羽が生えて、空を駆けめぐって、飛んで帰っていくような気分がしました。
政治は、遠いところにあると思っていたのに、また古臭い男性たちがやっていくものだと思っていたのに、政治がぐぐっと近くなりました。政治がとてつもなく近くなりました。
当時、そう思った女性たちも本当に多かったのではないでしょうか。
国会議員や自治体議員に、女性がたくさん当選をしました。
土井さんの存在が、活躍が、政治の世界にもっと女性をという多くの人たちの願いを実現をしていきました。
女性の弁護士たちで、土井たか子を支える女性弁護士の会を作り、選択的夫婦別姓を含めて様々な提言をしてきました。
1993年の衆議院選挙の時に、土井さんの応援に、兵庫県に行ったことが貴重な思い出です。土井さんと中村敦夫さんとわたしの3人で、演説をしてまわりました。土井さんは、大人気で、団地で、演説を始めると、たくさんの女性たちがどんどん出てくると言う状況でした。土井さんの演説は、みんなを励ます演説で、素晴らしい中身でした。
私は、1998年、土井たか子さんにこう言われました。
「これから有事立法が五月雨のように出てくる。そんな国会の中で一緒に頑張って欲しい。」
私は、「国会の中に、憲法9条を変えないという政党がなくなったら困る」という思いから、立候補を決意しました。
土井さんは、私が議員になる生みの親です。
政治状況は、土井さんの言う通りになりました。
1999年は、周辺事態法、盗聴法、住民基本台帳法の改悪法、日の丸君が代国旗国歌法、国会法の改悪法の悪法5本が成立をしました。
そして、立候補する時も、幹事長になる時も、党首になる時も、土井たか子さんの熱い説得がありました。私の人生の重要な節目で、土井たか子さんの説得を受けました。
ですから、土井さんは、生みの親であると同時に育ての親でもあるわけです。
土井たか子さんなくして、私の人生はありません。心から土井たか子さんに感謝をしています。
政治の親、政治の母親のような存在です。
だからこそ、亡くなられて、大変ショックを受けています。
土井さんは、日本の護憲のシンボルであり、憲法の守護神でした。国会の中で、仁王立ちでがんばっていたと思います。こんな時代だからこそ、もっともっと長生きをして欲しかったです。
また、女性の政治家としても傑出していました。
女性初の政党の委員長、そして衆議院議長を務めました。
女性が輝く、女性が政治の場所で輝く、そんなシンボルでした。
宝塚の男役のようだとよく言われていました。オーラがあり、輝いていました。また、たくさんの街頭演説を一緒にやりましたが、パワーがあり、人を励ます、素晴らしい中身でした。人々への愛情に溢れているそんな演説でした。
土井さんは歌が大変上手でした。小林カツ代さんが作った神楽坂女声合唱団に一緒に入りました。「緑の星に」というCDがありますが、土井さんはソロで歌を歌っています。
また、私が1年にいっぺんやっているパーティーで、気軽に、アカペラで、たくさんの歌をその場で歌ってくれました。
とりわけ「マイウエイ」は、土井さんの、わが道を行くという気概に溢れた素晴らしい歌いっぷりでした。
連合会長であった笹森さんと土井さんとでカラオケをやったことがあります。実は、笹森さんも大変歌の上手な方でした。いつだったか、カラオケの時に、美空ひばりさんの歌を歌ったことなどを覚えています。
土井さんの護憲の原点は、土井さん自身が体験をした空襲などの戦争の体験ではないでしょうか。
お医者さんであったお父さんの手伝いをした時の話などを聞いています。土井さんは、自分の体験から、まっすぐ、熱く護憲を貫き、そのために国会で体を張って、粉骨砕身がんばり抜いた人です。
そして、土井さんが、衆議院議長から、社民党党首になったときに行われた衆議院議員選挙の時のスローガンは、「市民との絆」です。
市民との絆を求めて、政治活動をされたと思います。
沖縄の辺野古の海に、海上基地を建てさせないために、テントがはられています。沖縄のおじいやおばあがそこでがんばり続けています。そこにも、土井さんの色紙がありました。
「美ら海に基地はいらない」といった中身だったと思います。
土井さんのきれいな字で美ら海と書いてありました。
政治の世界で、土井さんは、言葉に責任を持ち、ぶれずに、体を張ってきたと思います。
これから、多くの人と、憲法を守る、憲法を活かすという立場で、土井たか子さんの遺志を多くの人としっかり受け継いでいきます。
土井たか子さん、本当にありがとうございました。
こころから感謝をしています。
スポンサーサイト

