fc2ブログ
 

福島みずほのどきどき日記

3月28日(水)

刑事訴訟法改悪法案は問題だ
―それでもぼくはやってないー

「それでもぼくはやってない」の映画がヒットしている。痴漢冤罪の事件を法廷場面も含めて極めて丁寧に描いた映画である。「Shall we ダンス?」のあと、周防監督がどんな映画を撮るのかと思っていたら、「それでもぼくはやってない」の映画になったのだという感慨がある。
日本の刑事裁判は99%以上が有罪である。私たちは無罪のケースを有罪としていないかという反省を常に必要ではないか。
ところで、今国会の刑事訴訟法の改正法案が提出されている。この中身は問題である。
もちろん、今では被害者側の権利が弱かったということは確かにある。情報公示とケアはもちろん必要である。
しかし、今回の改悪は法廷のバーの中に意見陳述という形だけではなく、被害者を被告人を糾問する側として位置づけている。
刑事裁判は国家の刑事権を課すかどうかを決めるものである。被告人は有罪か無罪か、そして、もし有罪であるとして量刑はどうするのかを冷静に客観的に決めるものである。検察官は「公益の代表者」とも位置づけられている。
被害者や被害者の家族は被告人の質問をする。また、被害者や遺族は検察官と同様に裁判の最後に論告・求刑を行う。
参議院の予算委員会で質問をした。「検察官と被害者・遺族はそれぞれ論告・求刑を行うのか。」答えはYESである。
「それでは、検察は懲役15年、被害者は死刑」論告・求刑したらどうするのか。」と聞いた。裁判所はどう判断するのか。裁判所はちゃんと判断するという回答だ。だが、全くおかしい。
私はセクシャルハラスメントや強姦・DVの被害者のケースを多く担当してきた。少なくない女性たちは、「加害者を一生刑務所に閉じ込めて欲しい。」という人もいた。
気持ちはよくわかる。しかし、当たり前だが、だからといってみんなを無期懲役にするわけにいかない。2つ論告・求刑が出るというのは全くおかしい。また、裁判が報復の場としてしまわないだろうか。
細かいが、裁判は訴訟物をめぐって、その訴訟物があるかどうかを判断する。傷害致死が争いになっているときに被害者の遺族が、「よくも殺したな。」と被告人を責めると、これは「殺意」が』問題となる。
論点でないことが論点になっていく。これは被告人側の防御ができないということを生み出していく。
また、冤罪を増やさないだろうか。最近、富山県で服役したケースで冤罪であることが明らかになった。被害者は、「この人は犯人だ。」と思い込んで質問したら、冤罪を増やすのではないだろうか。
2年後の裁判員の制度の導入でなおさら法廷が感情によって動かされないか検証する必要がある。
ところで、29日被害者参加制度について考える院内集会があった。この法案を考え直すことを求める弁護士、市民の方々が参加していたが、そこには被害者の皆さんも参加されていた。集会の最後に被害者の方からの発言があり、その苦しみや不満をぶつけられていた。私も被害者の皆さんの苦しみを十分に理解しているつもりである。被害者の皆さんの意見をこれからも丁寧に聞いていきたい。

PageTop