
「ブラック・スワン」
督 ダーレン・アロノフスキー 、主演 ナタリー・ポートマン、
ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー
ニューヨークバレエ団の新しい演目を芸術監督のルロワ(ヴァンサン・カッセル)は、白鳥の湖に決める。斬新な解釈で、意欲的な舞台を作ろうと考える。そのため、今まで、バレエ団のプリマだったべス(ウィノナ・ライダー)が引退をするのをきっかけに、新たなプリマを抜擢しようとする。バレエ一筋でやってきたニナ(ナタリー・ポートマン)は、プリマになりたいと思い、べスからこっそり盗んだ真っ赤なルージュを唇に塗り、ルロワの事務所を訪ねる。
技巧的で、清潔で、上品で、可憐なニナは、白鳥を踊るには、最適だが、黒鳥の表現が難しい。
自由奔放で、挑発的で、予測のできない自由な踊りを踊るリリーは、黒鳥にぴったりである。
ルロワは、リリーをプリマに抜擢をすると思っていたら、ルロワは、ニナを主役に選ぶ。
プリマを踊る重圧となかなか黒鳥の表現ができないニナ。ライバルのリリーが主役を奪うのではないかという不安。焦燥感と孤独を強めていく。
果たして、二ナは、初演の日に、踊ることができるだろうか。
この映画は、自分との闘いということと嫉妬ということが大きなテーマである。
自分との闘いということでいうと、自分からの脱皮、自己否定ということがテーマである。
この映画は、ニナと3人の女性との関係が描かれている。嫉妬の関係である。
まず、母親である。
母親は、かつてバレリーナであり、ニナを妊娠したことで、バレーを辞めたと言っている。しかし、ある意味いうと、群舞を踊るその他大勢の一人であり,夢をあきらめたとも言える。
母ひとり、子ひとりの生活。
母は、バレエに励む娘を一心に支え、励ましている。
母の夢の実現を娘がしている。
しかし、事態はそんなに単純ではない。
ニナが帰ってくると、母は一人で絵をかきながら,泣いている。
母の気持ちは、本人もわからないくらい複雑なのだ。
ニナの成功を誰よりも望んでいるのは母であり、また,母は自分が実現できなかったことを娘が実現するのではないかというときに、微妙なブレーキ役も果たす。
「4人の白鳥もいい役割よ。」と言ったような。
深層心理では、娘が自分の果たせなかったことを果たすかもしれないというときに、嫉妬を感じているのではないか。
母は、娘を心配し、コントロールをしてきた。
母は娘の殻である。
殻は、外部からなかみを守るという役割となかなかなかからは破れないという役割という両義性を持つ。
娘は、母から守ってもらうと同時に母から拘束をされる。
ところで、夫や恋人で、応援をしてくれながら、実は自分のテリトリーのなかにいろよとか「君には無理なんじゃないの。」と言う人はいそうな気がする。これはこれで恋愛の呪縛の問題である。恋人とは一応別れることができるが、母親とはなかなか別れることができないところがミソである。
ニナは、清潔で、上品な白鳥は踊れるが、奔放で、誘惑的な黒鳥は踊れない。
自分のなかの性的なものも含め抑圧をしてきたのである。
白鳥と黒鳥、ニナとリリーは、対照的だ。この映画を見ながら、「17歳のカルテ」というウィノナ・ライダーが主演した映画を思いだした。ウィノナ・ライダー役は、内省的な女の子、かたやアンジェリーナ・ジョリー演ずる奔放で、自由で、破壊的な女の子。対照的な2人。当時人気絶頂のウィノナ・ライダーを食って、輝く印象的な
演技をしたアンジョリナ・ジョリが、アカデミー賞の助演女優賞をとり、わたしは、ウィノナ・ライダーは、静的な演技をせざるを得ない役柄だったので、少し同情をしたものだ。ウィノナ・ライダーとアンジェーリナ・ジョリーは、対照的な女の子、まさに、ニナとリリーを演じていた。
対照的に2人なのだが、他方、見方を変えれば、同じ人のなかにある2つの側面という面もある。
慎重で、臆病な部分と大胆で、自己主張し、破壊的な部分と。
自分との闘い、自己否定、分身ということも描いている映画だと思う。
正、反、合。アウフヘーベンした自分に出会うことができるのか。
そのために殻を破ることができるのか。
作家の村山由佳さんが、作品をがらっと変え、複数の男性との性愛を描く小説をかくことができるようになったのは、母親が認知症になり、彼女の小説を読めなくなったこともあるのではないかと語っていらっしゃるのを読んだことがある。
多くの娘は、母親の期待に沿いたいと思う。母親を悲しませたくないし、がっかりさせたくないのだ。
どこかで、母親の意識や眼を意識して暮している。
この映画は、母と娘の関係のある真実を描いていると思う。
バレリーナが踊っているかわいい小さなオルゴール。これを母は鳴らしながら、娘の枕元にいて、寝つこうとする娘を慰める。恐らく、ニナがごく小さいときから、このオルゴールを鳴らしていたのだろう。
このオルゴールを叩き割り、ぬいぐるみを捨てさるニナは、はっと何かに気付いたのだ。
次に、べスとの関係。
ニナは、長年プリマをやってきたべスに憧れている。
ナタリー・ポートマンとウィノナ・ライダーは、よく似ている。ナタリー・ポートマンは、ウィノナ・ライダーの後継者のように思っていた。ナタリー・ポートマンは、天才子役出身、女優のキャリアを一時中断をして、名門大学に進学、「優等生」といった点で、ジョディ・フォースターに似ている。
しかし、ある意味ウィノナ・ライダーの後継者でもある。
小柄で、思いつめたような表情や繊細さ、愛くるしい童顔などである。ウィノナ・ライダーのほうが自由奔放、破壊的なところがあると思うが。
ナタリー・ポートマンは、1981年生まれ。ウィノナ・ライダーは、1971年生まれ。30歳と40歳くらいというところだろうか。
べスは、本当は引退などしたくなかったのである。しかし、年齢などにより、引退を余儀なくされる。バレエ団も客寄せなどのために、新しい,新鮮な女王を必要としていると芸術監督ルロワは考えたのである。
ニナに嫉妬するべス。
わたしは、ウィノナ・ライダーとナタリー・ポートマンの大ファンで、ほとんど作品を見ているので、感慨無量だった。
ウィノナ・ライダーは、「ヘザーズ」や素晴らしい作品があり、若いうちから名声を勝ちえていたが、「17歳のカルテ」後からだろうか、あまり作品を見なくなっていた。
また、様々な作品に出て欲しい。
まだ、40歳なのだもの。
次に、リリーである。
挑発的で、自由で、野心むきだしで、バレリーナの規律を無視して生きている。
ニナが持っていないもの。しかし、リリーに挑発されるなかで、ニナ自身が変わっていく。ニナのなかにも、リリーはいるのだ。
リリーは、プリマをねらっている。ニナの万が一のときの代役を獲得をする。
ニナは、べスに代わって、プリマを獲得するが、今度は、リリーに、攻撃をされ、とってかわられるのではないかという不安や恐怖心にさいなまされる。
リリーがニナに嫉妬しているのだが、嫉妬されたニナは、恐怖心を持つ。
ニナは、望んできたプリマの座を得るが、重圧はかかるし、大変。技巧的で、美しいバレリーナというだけではやっていけない。
自分との闘いであり、今までの自分を自己否定しなければ、前に進めないのである。
そして、母親、べス、リリーからの嫉妬を切りぬけなければならない。
この映画でうまいなあと思ったのは、嫉妬が単純には描かれていないのである。
一番の支援者であり、伴走者であり、味方である母親の深層心理のなかに複雑な嫉妬が隠れている。
自分ができなかったことを、他の女が乗り越えようとしていることに、心中穏やかになれないのだ。応援をしているのか、実は、ブレーキをかけているのか。そして、当の本人もよくわかっていないのである。嫉妬している、されているというのが、はっきり見え、わかっていれば、まだ対処の仕方がある。しかし、心は複雑で、よく見えないのだ。
この映画は、まさに女性映画だ。
男性たちは、出演しているが、ルロワ以外は重要な役割は果たしていない。ニナは実はルロワを少し好きだろうが、そのことが重要なポイントにはなっていない。
ある一人の女性の内面と彼女のまわりとの女性との支援であり、嫉妬であり、関係を描いている。
男性との関係、恋愛が描かれているのではない。
少し前まで、多くの登場人物が出てくるとひとりくらい女性を入れましょうと、いわゆる花を添えるという感じで女性が登場するということがあった。
大好きなハリソン・フォードの冒険物シリーズでも強い女性は出てくるけれども、彼女の内面が描かれるわけではない。もちろんそれも映画。刑事物や探検隊、時代劇で女性がひとりということはよくあった。
それらとは全く違う映画であった。
映画を見ると、元気をもらったり、違う考えをもらったり、いろんなものをもらう。違うところへ連れていってくれる。
そして、癒しやカウンセリングの役割もある。
わたしは、この映画をこれまた自分を投影して見た。
人から一切嫉妬を受けない人はあまりいないのではないだろうか。
嫉妬がテーマだが、むしろ重圧と嫉妬を受けたあとの個人の内面がテーマだと思う。
嫉妬を受けて当たり前。
全部自分のこと。
黒鳥に象徴をされる強さ、自己主張、自由さも手にすることができるか。
一筋縄でいかない映画。女の成長物語なんで言えない複雑で魅力的で少し怖い映画。
見た後に必ず少し違う自分になれる映画。
真っ赤な充血をした眼で、黒鳥を踊ろうとするニナの姿が一番印象的である。
督 ダーレン・アロノフスキー 、主演 ナタリー・ポートマン、
ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー
ニューヨークバレエ団の新しい演目を芸術監督のルロワ(ヴァンサン・カッセル)は、白鳥の湖に決める。斬新な解釈で、意欲的な舞台を作ろうと考える。そのため、今まで、バレエ団のプリマだったべス(ウィノナ・ライダー)が引退をするのをきっかけに、新たなプリマを抜擢しようとする。バレエ一筋でやってきたニナ(ナタリー・ポートマン)は、プリマになりたいと思い、べスからこっそり盗んだ真っ赤なルージュを唇に塗り、ルロワの事務所を訪ねる。
技巧的で、清潔で、上品で、可憐なニナは、白鳥を踊るには、最適だが、黒鳥の表現が難しい。
自由奔放で、挑発的で、予測のできない自由な踊りを踊るリリーは、黒鳥にぴったりである。
ルロワは、リリーをプリマに抜擢をすると思っていたら、ルロワは、ニナを主役に選ぶ。
プリマを踊る重圧となかなか黒鳥の表現ができないニナ。ライバルのリリーが主役を奪うのではないかという不安。焦燥感と孤独を強めていく。
果たして、二ナは、初演の日に、踊ることができるだろうか。
この映画は、自分との闘いということと嫉妬ということが大きなテーマである。
自分との闘いということでいうと、自分からの脱皮、自己否定ということがテーマである。
この映画は、ニナと3人の女性との関係が描かれている。嫉妬の関係である。
まず、母親である。
母親は、かつてバレリーナであり、ニナを妊娠したことで、バレーを辞めたと言っている。しかし、ある意味いうと、群舞を踊るその他大勢の一人であり,夢をあきらめたとも言える。
母ひとり、子ひとりの生活。
母は、バレエに励む娘を一心に支え、励ましている。
母の夢の実現を娘がしている。
しかし、事態はそんなに単純ではない。
ニナが帰ってくると、母は一人で絵をかきながら,泣いている。
母の気持ちは、本人もわからないくらい複雑なのだ。
ニナの成功を誰よりも望んでいるのは母であり、また,母は自分が実現できなかったことを娘が実現するのではないかというときに、微妙なブレーキ役も果たす。
「4人の白鳥もいい役割よ。」と言ったような。
深層心理では、娘が自分の果たせなかったことを果たすかもしれないというときに、嫉妬を感じているのではないか。
母は、娘を心配し、コントロールをしてきた。
母は娘の殻である。
殻は、外部からなかみを守るという役割となかなかなかからは破れないという役割という両義性を持つ。
娘は、母から守ってもらうと同時に母から拘束をされる。
ところで、夫や恋人で、応援をしてくれながら、実は自分のテリトリーのなかにいろよとか「君には無理なんじゃないの。」と言う人はいそうな気がする。これはこれで恋愛の呪縛の問題である。恋人とは一応別れることができるが、母親とはなかなか別れることができないところがミソである。
ニナは、清潔で、上品な白鳥は踊れるが、奔放で、誘惑的な黒鳥は踊れない。
自分のなかの性的なものも含め抑圧をしてきたのである。
白鳥と黒鳥、ニナとリリーは、対照的だ。この映画を見ながら、「17歳のカルテ」というウィノナ・ライダーが主演した映画を思いだした。ウィノナ・ライダー役は、内省的な女の子、かたやアンジェリーナ・ジョリー演ずる奔放で、自由で、破壊的な女の子。対照的な2人。当時人気絶頂のウィノナ・ライダーを食って、輝く印象的な
演技をしたアンジョリナ・ジョリが、アカデミー賞の助演女優賞をとり、わたしは、ウィノナ・ライダーは、静的な演技をせざるを得ない役柄だったので、少し同情をしたものだ。ウィノナ・ライダーとアンジェーリナ・ジョリーは、対照的な女の子、まさに、ニナとリリーを演じていた。
対照的に2人なのだが、他方、見方を変えれば、同じ人のなかにある2つの側面という面もある。
慎重で、臆病な部分と大胆で、自己主張し、破壊的な部分と。
自分との闘い、自己否定、分身ということも描いている映画だと思う。
正、反、合。アウフヘーベンした自分に出会うことができるのか。
そのために殻を破ることができるのか。
作家の村山由佳さんが、作品をがらっと変え、複数の男性との性愛を描く小説をかくことができるようになったのは、母親が認知症になり、彼女の小説を読めなくなったこともあるのではないかと語っていらっしゃるのを読んだことがある。
多くの娘は、母親の期待に沿いたいと思う。母親を悲しませたくないし、がっかりさせたくないのだ。
どこかで、母親の意識や眼を意識して暮している。
この映画は、母と娘の関係のある真実を描いていると思う。
バレリーナが踊っているかわいい小さなオルゴール。これを母は鳴らしながら、娘の枕元にいて、寝つこうとする娘を慰める。恐らく、ニナがごく小さいときから、このオルゴールを鳴らしていたのだろう。
このオルゴールを叩き割り、ぬいぐるみを捨てさるニナは、はっと何かに気付いたのだ。
次に、べスとの関係。
ニナは、長年プリマをやってきたべスに憧れている。
ナタリー・ポートマンとウィノナ・ライダーは、よく似ている。ナタリー・ポートマンは、ウィノナ・ライダーの後継者のように思っていた。ナタリー・ポートマンは、天才子役出身、女優のキャリアを一時中断をして、名門大学に進学、「優等生」といった点で、ジョディ・フォースターに似ている。
しかし、ある意味ウィノナ・ライダーの後継者でもある。
小柄で、思いつめたような表情や繊細さ、愛くるしい童顔などである。ウィノナ・ライダーのほうが自由奔放、破壊的なところがあると思うが。
ナタリー・ポートマンは、1981年生まれ。ウィノナ・ライダーは、1971年生まれ。30歳と40歳くらいというところだろうか。
べスは、本当は引退などしたくなかったのである。しかし、年齢などにより、引退を余儀なくされる。バレエ団も客寄せなどのために、新しい,新鮮な女王を必要としていると芸術監督ルロワは考えたのである。
ニナに嫉妬するべス。
わたしは、ウィノナ・ライダーとナタリー・ポートマンの大ファンで、ほとんど作品を見ているので、感慨無量だった。
ウィノナ・ライダーは、「ヘザーズ」や素晴らしい作品があり、若いうちから名声を勝ちえていたが、「17歳のカルテ」後からだろうか、あまり作品を見なくなっていた。
また、様々な作品に出て欲しい。
まだ、40歳なのだもの。
次に、リリーである。
挑発的で、自由で、野心むきだしで、バレリーナの規律を無視して生きている。
ニナが持っていないもの。しかし、リリーに挑発されるなかで、ニナ自身が変わっていく。ニナのなかにも、リリーはいるのだ。
リリーは、プリマをねらっている。ニナの万が一のときの代役を獲得をする。
ニナは、べスに代わって、プリマを獲得するが、今度は、リリーに、攻撃をされ、とってかわられるのではないかという不安や恐怖心にさいなまされる。
リリーがニナに嫉妬しているのだが、嫉妬されたニナは、恐怖心を持つ。
ニナは、望んできたプリマの座を得るが、重圧はかかるし、大変。技巧的で、美しいバレリーナというだけではやっていけない。
自分との闘いであり、今までの自分を自己否定しなければ、前に進めないのである。
そして、母親、べス、リリーからの嫉妬を切りぬけなければならない。
この映画でうまいなあと思ったのは、嫉妬が単純には描かれていないのである。
一番の支援者であり、伴走者であり、味方である母親の深層心理のなかに複雑な嫉妬が隠れている。
自分ができなかったことを、他の女が乗り越えようとしていることに、心中穏やかになれないのだ。応援をしているのか、実は、ブレーキをかけているのか。そして、当の本人もよくわかっていないのである。嫉妬している、されているというのが、はっきり見え、わかっていれば、まだ対処の仕方がある。しかし、心は複雑で、よく見えないのだ。
この映画は、まさに女性映画だ。
男性たちは、出演しているが、ルロワ以外は重要な役割は果たしていない。ニナは実はルロワを少し好きだろうが、そのことが重要なポイントにはなっていない。
ある一人の女性の内面と彼女のまわりとの女性との支援であり、嫉妬であり、関係を描いている。
男性との関係、恋愛が描かれているのではない。
少し前まで、多くの登場人物が出てくるとひとりくらい女性を入れましょうと、いわゆる花を添えるという感じで女性が登場するということがあった。
大好きなハリソン・フォードの冒険物シリーズでも強い女性は出てくるけれども、彼女の内面が描かれるわけではない。もちろんそれも映画。刑事物や探検隊、時代劇で女性がひとりということはよくあった。
それらとは全く違う映画であった。
映画を見ると、元気をもらったり、違う考えをもらったり、いろんなものをもらう。違うところへ連れていってくれる。
そして、癒しやカウンセリングの役割もある。
わたしは、この映画をこれまた自分を投影して見た。
人から一切嫉妬を受けない人はあまりいないのではないだろうか。
嫉妬がテーマだが、むしろ重圧と嫉妬を受けたあとの個人の内面がテーマだと思う。
嫉妬を受けて当たり前。
全部自分のこと。
黒鳥に象徴をされる強さ、自己主張、自由さも手にすることができるか。
一筋縄でいかない映画。女の成長物語なんで言えない複雑で魅力的で少し怖い映画。
見た後に必ず少し違う自分になれる映画。
真っ赤な充血をした眼で、黒鳥を踊ろうとするニナの姿が一番印象的である。

