福島みずほのどきどき日記

宮台 真司さんとの対談概要「原発ムラ社会からの離脱」(2011年6月20日)

 福島みずほ(以下「福島」)
 若いときから新進気鋭の社会学者でがんばっておられる宮台さんに来ていただきました。宮台さんと飯田哲也さんが、最近「原発社会からの離脱」(講談社現代新書)を出されました。今、本屋さんに積んであるので見てください。話し言葉でとてもかわりやすいです。飯田さんはそういう人生を生きてきたの、など、宮台さんの力で堅苦しくなく、本質的なことをわかりやすく扱っています。宮台さんが強調しておられるのは、社会学者としてこの社会をどう考えるか、という観点から、脱原発を分析しておられます。
 3.11原発事故があり、そのあと、いろんな動きがあり、今、政治の意思決定をどう変えるかというところですが、若い人たちや市民の人たちの意識もずいぶん変わりました。3.11をめぐっての議論、その後について、ご本にもありますが、これからのエネルギーとこれからの政治について話していただけますか。

 宮台真司さん(以下「宮台」)
 3.11の直前に脱稿した朝日ジャーナルの原稿が3.11直後に出ましたが、それが奇しくも原発事故とシンクロしていて、いろいろなところで書いたり発言したりする機会が増えてこの本にも至りました。もちろん、原発事故は技術的な問題も背景にありますが、われわれがどうして原発をやめられずにここまで来たのか、あるいはもっと直接的には、3.11以降、われわれは大きな分岐点にいますね。つまり、ヨーロッパから2周くらい周回遅れのこの政治社会を先進国並みにしていけるのか、それとも永久にこのまま終わって沈没していくのかということですね。
 たぶん、キーワードは共同体自治ということなんですよ。実は再生可能エネルギー、僕は自然エネルギーという言葉を好みますが、それは電源の種類の問題ではなくて共同体自治の問題です。良く似たことはスローフード問題がそうで、スローフード、あるいはスローフード運動というのは、オーガニックなものやトレーサブルなものを食べることではなくて、食の共同体自治なんですね。でも、日本ではそれが理解されていなくて、90年代後半のロハス、これはウォルマートという巨大スーパーマーケットがスローフード運動に恐れをなして作り上げた営業戦略で、あたかもオーガニックなもの、トレーサブルなものがオーケーだというような、スローフードから見たら完全なデタラメを吹聴していろんな人をだまそうとしたものです。
 われわれは完全にだまされていて、本質がわかっていない。本質をわかる良いチャンスにできるかどうかですね。たとえば、何でヨーロッパが90年代に入ってから、まずイギリス、そしてドイツで脱原発方向に舵を切れたのかというと、2つ理由がある。1つは86年のチェルノブイリ原発事故で、実際放射線被害を受けて、特に農業従事者を中心として、ウクライナだけではなくヨーロッパ全土で食料が大きな被害を受けて、日本でもイタリアノデューラムセモリナのスパゲッティが汚染されているということでしばらくスーパーから消えました。そのくらい大きな、食にかかわるダメージがありました。
 それが大きなきっかけになって、ドイツなどで農業従事者を中心に原発はやめてくれないかということで、キリスト教民主同盟という、日本では自民党に相当するような保守政党が農民の異議に応えてエネルギー政策を変えたんですね。もう1つ大きな要因は、70年代の福祉国家政策が破綻して国家財政が危うくなり、ウェルフェアクイーンという言い方もありますが、失業手当や生活保障で食べて働かない人が増えるようなことが現実に起こり、それに対処するために一方で新自由主義が起こりましたけれども、それと良く似て、でも少し違う動きとしてヨーロッパでスローフード運動が起きてきます。
 これはオーガニックとかトレーサブルというのが本質ではなく、顔の見える人たちに作って売る、それによって悪いことはできなくなるし、良いことをしたくなる、それだけでなく、今度は顔の見える範囲から買う、すると努力しているのがわかるのでスーパーより高くても買うということで、食をめぐる自立的な経済圏が保たれて、人間関係、経済、街並み、街の文化、街のにおい、いろいろなものが保たれるというのがスローフードの本質なんですね。
 結果として有機肥料を使うことが多くなったりしますが、それは派生的効果で、食の共同体自治がいざ事故が起こったときの安全保障にもなるし、共同体の人が共同体を支えるということが楽しいし、生き甲斐にもなるし、実際、意味のある人生を送れる社会を保つことに役立つということで、そういう動きが広がっているところに、チェルノブイリの原発事故が起こったわけです。
 食の共同体自治がエネルギーの共同体自治に広がって、97年の京都会議におけるヨーロッパの協調路線に至る流れになっていますが、日本では、これまでいろいろ書いてきましたがそこが理解してもらえなくて、相変わらずスローフードはロハスだし、自然エネルギーも、東電さん、原子力発電じゃなくて太陽光発電にしてよ、みたいな、そのへんが全く理解されておらず、残念ながら、3.11以降、脱原発の問題が育っている中でも、相変わらずスローフードを食材の問題と勘違いしたのと同じように、原子力発電の問題を電源種の問題と勘違いしてる人が非常に多いのが気になるので、飯田さんと一緒に書かせていただいた。
 とりわけ飯田さんは、原子力村の出身者でもいらっしゃるので技術的な問題もいくらでも書けるわけですが、それよりも原子力村のコミュニケーションがどういう形であるのか、あるいはどういうタブーがあるのか、どういう当たり前さ/自明性の中を生きているのか、その辺を語っていただき、それに対する違和感が飯田さんの出発点になっているんじゃないかと思って、それを引き出すことを目標として、この本のもとになる対談をさせていただきました。

 福島
 自然エネルギー促進法を作ろうというので、13年前に国会議員になったときから、飯田さんとはいろんな形でやってきて、おっしゃるとおり、地域の、そして民主主義の問題でもあると思うんですよね。

 宮台
 そうです。民主主義のポイントは自治と参加、あるいは自治と協和です。ところが、日本の明治維新、あるいはそれ以前の江戸時代からの社会の動かし方が、簡単に言うと、統制と依存ですそれは敗戦後、民主主義社会になったといっても、われわれは何かというと中央政府にもっと統制してくれと、うまく統制してくれている限りは中央に完全に依存する、中央への依存は権力への依存、巨大システムへの依存、巨大資本への依存、当たり前さ/自明性への依存です。依存が怖いのは、依存していた巨大システムが動かなくなれば

 福島
 今もううまくいっていなくて、在日米軍基地の問題も、原発の問題も、エネルギー政策も機能しないんですよね。

 宮台
 なので、巨大システムをもっとうまく運転しろとか、もっとうまいシステムを作れというやり方ではなく、巨大システム、力、中央に依存するやり方をやめなければならないということなんですね。

 福島
 やめるという一つが自然エネルギーなんですね。原発はめちゃくちゃ中央集権的で自然エネルギーは地方分権的。でも今、経済産業大臣が再稼働と、まるで原発事故などなかったかのように言っていて、何を基準にやるんだと思いますが、自治体の首長たちが非常に変わり始めていますね。

 宮台
 実際、原子力発電に対するわれわれの動機付けは74年の電源三法以降は交付金が目当てで、安全かどうかを横に置いたまま原発を立地させてしまったので、背に腹を変えられない選択をした以上、安全信仰にすがるしかなく、絶対安全信仰が流布したまま、ここまで来てしまったわけですね。神話に毒されて来ましたが、生々しい現実を突きつけられて、もはや絶対安全神話はないということがわかった瞬間、原発再稼働をするなんてどういうことなんだ、どの程度安全なんだ、全く情報がわからない。
 しかもふたを開けてみると、昔から知られているけれど、電源関係の交付金はほとんど全てが原発に注がれてきている。しかも、原子力損害賠償は、原子力発電所で何らかの事故が起きた場合は、人災か天災かを問わず、まず電力会社が無限責任を負い、負いきれない場合は政府が無限責任を負うという図式があるがゆえに、賠償額を下げる為に僻地にもともと立地した。福島は、福島を仙台にするというスローガンがあったけれど、気の毒なことに自治体の首長さんはだまされて、福島は絶対に仙台にはならない。
 しかも原子力災害補償の観点から言うと、わざわざ払えるところにおいたのに払えない場所にしてしまった、ということは、永久に原発の場所というのは、それなりにお金漬けにするけれどにぎわいが出て来るということにはならない、人口が増えるということは絶対にさせないですね。

 福島
 それは政策的にとられたんでしょうか。

 宮台
 間違いなくとられたと思います。ただ、それを情報開示していなかったですよね。原子力はあまりにも巨大なシステムなので、例によってたくさんの経産省関係の天下り法人ができるんですね、何百という。経産省としては天下り先の確保という観点からも、中央の指令と一体になった地域独占的な電力会社はやめてほしくないわけですね。国家からの統制にすごく相応しい電源種だから原発が採用されたのであって、原子力発電が安いからではない、実際にはコスト的にもリスク的にもどんな面から見ても原子力発電は高いのです。安いとか、炭素を出さないとか、安全とかいうのは、ごく一部のパラメーターだけを御用学者がピックアップして計算しているだけで、完全なデタラメです。
 そのデタラメを、御用学者なんていうのはどこにでもいるからいいのですが、経産省が国を挙げて吹聴してきた結果、原発をめぐる神話ができあがってしまっている。ただ、それが解体しつつあるなかで、まだ経産省が天下り先の地域独占的な電力会社に加担しようとしている。じゃ、電力会社はどうして原子力発電に固執するのかというと、これは簡単で、地域独占供給体制を維持する、あるいは発送電を分離しない体制を永久に維持するためには、原子力発電がふさわしい、なぜなら、原子力発電は巨大な資本を投入するので、三、四十年しないともとがとれない、もとがとれないうちに新しい電源種を導入すると原発がだめになってしまうので、原発を立地した以上、投資を回収させてくれという、ある種合理的な理由ではあるのですが、電力会社としては絶対死守で、しかも総括原価方式による電力利用料金というのがあって、コスト削減に関する努力の動機は全くなく、コストが大きくなればなるほど、その分、利益を達して電力料金に転嫁していいことになっているので、原子力発電がどんなに高くてもかまわないんですね。
 それで地域独占供給体制を維持し、地域の盟主として、高給取りとして、自分の人生を全うできるので、原発が合理的だからではなく、電力会社の人たちにとって、自分達の地位を保つのに有利なので、原子力発電があるのです。なんで、ここまで非合理・不合理な原子力発電がこの社会に残っている理由は権益にあるのに、われわれはそれを放置してきているんですね、統制と依存がわれわれにとっての当たり前な政治生活だったから。それを変えない限り、電源種を変えたからといって、原発のかわりに集中型の、太陽光で直接パネルから発電するのではない、中央のタワーに光を集めてそこで蒸気機関をまわす、原子力発電と全く同じ仕組みの太陽熱発電、そういうものを巨大電力会社が採用するというシステムに移行するだけで終わるかもしれない。それはとても良くないことです。

 福島
 この中で教育のことも語っていらして、そのことも一言話して頂けますか。特に、なぜ原発がこの社会にこんなに巨大にあり続けるのかということは、おっしゃるとおりですね。

 宮台
 教育の問題は根が深いですね。実は1952年のサンフランシスコ講和条約発効までは、GHQが文部省検定教科書を作らせていて、その中に今で言うメディアリテラシー教育が含まれていたんですね。具体的には、言語と文学という二つの単元があって、講和条約発効以降、言語が削除されて文学だけになって国語と名前を変えて今日に至るんですね。言語とはどういう科目だったのかというと、たとえばアナウンサーがしゃべっていると、アナウンサーは自分の思っていることをしゃべっていますか、違いますね、原稿を書いている人がいます、じゃ、原稿書いている人は自分の思っていることをしゃべっていますか、違いますよね、役割がある、じゃ、彼の書けることはどういうことですか、と、最終的に全ての情報源が利害のネットワークに組み込まれているので、わかりやすく言うと、真に受けちゃいけないという、(福島:メディアリテラシーですね)小学校・中学校時代からそういうことをやっていたんです。それはGHQの理想主義が当初反映していたのですが、1949年のソビエトの核実験成功、中華人民共和国の成立があり、50年に入ると朝鮮戦争が始まって、日本を理想的なリベラル国家にするよりも、不沈空母にするしかないという、これは中曽根さんの言葉ですが、そうなって、国民に考えさせるのをやめて、価値観の習得に関係ないような知識だけを教えることにした。
 それが鑑賞教育、国語なんですよ。その他、歴史もそうです。フランスのバカロレアは、高校卒業時に、どういう価値を持つべきなのかということを根本的な目標にしています。最近のバカロレアでは、「正義は単なる約束事であるかどうかを述べよ」とか「原語は単なるコミュニケーションの道具に過ぎないのかどうかを述べよ」とか、(福島:けっこう難しいですね)哲学の先生でもけっこう本気を出さないと答えられないような問題があり、どういう価値体系と関心を学ぶべきかを習得させるという教育目標があるのですが、日本ではそれがないんですよ。
 相変わらず事実の知識を問うとか、国語でさえも読み書き能力を問うとかにとどまっていて、先進社会と自称するに相応しい、適切な価値をどのようにして抱き、適切な価値をお互いに関与させる、どのようなコミュニケーションをすればいいのかという教育が全くなされていないですね。

 福島
 私自身もずっと思っているのは、わたしたちは主権者なのだから、子ども達も主権者としてこの社会で果たす役割を、政治的教育をする必要はないが、そういう批判精神やほんとうにそうか、というのはとても必要ですね。それが、原発はほんとにどうなのか、という議論はなくて、原子力わくわくランドで小学校の副読本で、5つの壁があります、とやってきたわけです。
 教育そのものは逆にニワトリ-タマゴでもあって、今教育を変えるといってもなかなかなので、正念場で大変だけれど、インターネット上ではテレビや新聞と違う情報が流れていたり、あるいはこれはほんとにどうなのよ、ということがいろんな集会で語られていたり、みんなでほんとに考えようという気運も出てきている、これを広げる、もう一回変わらなきゃ、と思っています。これからについて語ってください。

 宮台
 中央政府から、巨大システムを運転している側から、出てくるメッセージはまず疑わなければいけないし、それに対して批判するべきなんですね。ただ、ジョルジョ・アガンペンという政治学者が言っていることですが、これだけの技術社会になってグローバル化が進むと、基本的に巨大システムを国民が見通すというのは難しい。するとどうなるかというと、批判する時でさえ、行政官僚の専門性に依存することになりがちで、論理必然的に、行政官僚は国民のためと言いつつ、どこの国でも自分達の権益を守ることを最大目標にしているので、行政官僚の嘘を見抜くことができるようにするにはどうしても統治の単位を小さくする必要がある。それが共同体自治ということで、単なる地方分権ではないんです。
 地方分権とは、国家公務員が同種の地方公務員に移るだけで、エリートの肩書が変わるだけで、国民は相変わらず行政官僚にお任せ政治を変えず、同じことが、もっとひどいことが起こる可能性もあるわけです。とにかく、中央からのメッセージにだまされないためには、批判精神プラス自治、自分達の地域を自分達がどうまわすのか、小さな地域、小さなユニットでガバナンス、統治を考えると嘘は見抜けるんですね。それは嘘だろう、不自然だろうと、自分達の問題として声をあげられる。
 なので自治が重要、この点で言うとヨーロッパには、アテナイ以降、ギリシャや中世の都市国家、封建領主に対して作った自治都市の伝統もある、アメリカにはアングリカンチャーチの抑圧から逃れたピューリタン達の新天地樹立の伝統があるし、ウィリアム・ペンのペンシルヴァニアやモルモン教徒のユタ州のような州自治の伝統もある連邦国家なので、アメリカで右翼というと日本・ドイツなどの旧枢軸と違って基本的に反国家主義者で、自治を言っています。
 日本は、17世紀から江戸時代が始まりますが、同じ頃のロンドンでは、テムズ川は糞尿が捨てられる汚れた川だし、ペストで6万人か7万人が死んだのに対して、江戸はきれいなんです。上水道が完備し、糞尿は肥料として再利用されていて完全に再生可能化された社会だったんですね。本当に素晴らしい政治をやっていたんですが、そのせいでわれわれは統治権力に依存するのが当たり前になって、実は明治維新政府もそういう国民のメンタリティをそのまま引き継いだんですよね。
 なので、われわれは数百年に及ぶ政治生活の中で自治が重要だと思ったことはないし、社会学では自治の単位を家族より大きく国より小さい中間集団というんですが、明治には学校の学区で村を上書きするという形で、中間集団を全部国家の出先機関にしてしまったんです。自治会、町内会、PTA、全部同じで、われわれは自治の単位として中間集団を手にしたことは今までないんですね。江戸時代でも村はあったけれども統治は武士あるいは藩にお任せで、生産に関する調整や祭りをやっていたということで、われわれはずっと自治をしてきていない。大変なことだと思うけれども、自治がうまくできないときには、はっきり言って将来は全くない。
 グローバル化が進んでいるので、資本移動の自由化ゆえに、実はもう従来の内政も外交もできない。新興国がどんどんのしてきていて、どのみち新興国に追いつかれる産業分野で日本は戦おうとしてそして生き残れたとすると、それはインドや中国並みに労働分配率を上げるからで、企業は残ってわれわれはますます貧しくなる、あるいは、再配分のために累進税率を上げる、法人税率を上げるとすると資本はどんどん逃げて政府の原資はどんどん枯渇していく。なので、もうヨーロッパでもアメリカでも、当たり前だけれど、グローバル化に抗う、グローバル化の中で人々が不幸せにならないためには、とにかく自治、簡単に言うと市場や国家、行政官僚に過剰に依存しないということがだいじなんだということが基本中の基本で、そのわかりやすいとっかかりであり、実際歴史的にもそこから始まっているのが食の共同体自治とエネルギーの共同体自治です。
 今回の原発災害ではエネルギーと食の問題が直結して、原発の災害でわれわれの食も脅かされているんですね。ただ逆に、われわれはエネルギーと食の問題に同時に関心を持てるという意味では千載一遇のチャンスでもある。そこから、食とエネルギーの共同体自治に蒔き直すことでわれわれの社会の空洞化、自殺率がイギリスの3倍だったり、高齢者の所在不明や乳幼児虐待、孤独死など、諸外国の人も眼をむいて驚くほどの社会の惨憺たるありさま、原発以前から日本社会が終わりつつあるほどだったのが、ここで巻き返せるかどうか、ほんとに最後のチャンスですね。

 福島
 原発の事故も今まで何度も実はあって隠していて、今回も女川や青森も今一歩のところ、柏崎刈羽もあのあと調子悪いし、もんじゅだって火災事故で14年間止まっていて、つまり、ほんとうに大変な福島の事故が起きるまでぎりぎりの手前で止まっていた。で、実態が国民の目にかなり明らかになった。みなが教育やテレビやいろんなものが本当に真実を伝えるのか、御用学者が言っていたことや政府の発表、保安院や東電の発表は違ったじゃないの、と思い始めている。だから、ある意味、ものすごく危機的だけれど、ものすごいチャンスでもあって、このときに私たちがほんとに変わらないとどうなるのか。日本で第二の原発事故が起きたら日本は破滅する、と私は本気で心配しています。

 宮台
 でもまあ、第二の事故が起きるような、原発をやめられないような社会であれば、どのみち破滅するんですけどね。今のみずほさんの話でだいじなのは、原発の安全性もさることながら、放射能を含んだ廃棄物をどうするかも加えた核燃料サイクル事業のスキームが全然動いていない、クリーンエネルギーどころか、末代まで毒を出す原子力発電であるのに、この放射性廃棄物をどうするのかに関する図式がない。六ヶ所はほぼ満杯、仕方ないから、将来は全量再処理するという図式なので各原発もプールの中に使用済み核燃料を保存してあるわけです。浜岡は停止したけれど、使用済み核燃料はじゃぶじゃぶで、あそこを地震・津波がアタックすれば福島と同じことが起こるんですね。浜岡で原発を止めても、使用済み核燃料が再処理を待つ状態で水の中に漬かっているということがある限り、ずっと危険なんですよ。
 それを将来再処理する可能性は、コストがものすごく甘く見ても20兆くらいかかって(福島:青森だけで20兆弱ですね)、フランスは少しづつ輸出というか出して再処理しているけれど、あれからみるとはるかに何倍も高い額になるわけですね。しかも処理に追いつかないだけどんどん生産しているのでじゃぶじゃぶの状態。地下の地層に入れるといってもどこの自治体も名乗りを上げない。原子力の発電に合理性があったとしても、廃棄物処理の図式が全くできていないのに、どんどん発電して廃棄物をためていくというのはおかしなことで、単なる危険の問題と違って、合理性を考えるとものすごい膨大な費用が子孫にかかっていくわけです。

 福島
 十万年も。しかも日本は地下水に入ると大変です。

 宮台
 そう考えると、ほんとうに原発をめぐる情報は、クリーン、安全、と、ほんとにデタラメが吹聴されてきた。巨大なスポンサーシップの額を電力会社が使ってきて、精神的な自粛も含めてタブーがメディアの中にあり、テレビやラジオに出演して東電の悪口を言ったら二度と使ってもらえない、プロデューサーも真っ青、というのが日本の形だったんですね。僕も実際体験していますが。われわれの社会には、巨大電力会社に依存するゆえに言論の自由さえ機能していないという。

 福島
 そうなんですよね。社民党はシュラウドの事件があったときに、佐藤栄佐久さんを問題にしましたけれど、当時勝又社長が社民党本部に来て、私たちは公開質問状を出してそうとうやりあったんですけれど、ほんとうの意味で言論の自由があったか。私たちは利権がないので、やるぞという感じでしたが、なかなかそれがメジャーな形にならなかったり、問題を国会で質問してとりあげてもらおうとしてもそれはなかなか困難でしたね。

 宮台
 実際問題として、電力会社が経産省の人事に与える影響力もあったし、出版界でも東電の利用接待は分厚く行われていて、東電批判については必ず上司や同僚からチェックが入るような雰囲気になっていた。この異常性が今まで異常と思われてきていないのがおかしい。あるいは最初からエネルギーについてのテレビ番組はほとんどなくて、ほぼ1ヶ月前の金平茂紀さんの報道特集で、初めて自然エネルギーが共同体自治とどう結びついているのかという番組ができましたが、これも民放ではずっとできなかった。あるいは、NHKではやっているけれど民放でやっていなかったのは、自動車のスポンサーシップがあるからですが、ヨーロッパ、オランダやドイツの主要な街では自動車は町の途中までしか入れない、そこから先は遊歩道と自転車なんだけど、そういう番組を作れない。これもマスコミに同じ図式がありますが、垂直統合図式というものがある。
 発電・送電・配電が一つの会社によって持たれていることで、送電網を所有している会社が、送電網に何をつなげていくか、発電するにしても電気を受け取るにしても、全部決める。通信事業も垂直統合図式で、そこに何をつなげていくか全部決めることができる。だから、孫さんが今回巨額のお金を出して再生エネルギーの事業を推進されようとしているのは、通信で行われていた同じことを目撃体験して苦労しておられたからで、テレビも同じですね。中央の在京民放がずべての局を系列化していて、地方は中央の番組をオンエアすると不思議なことに中央から地方にお金が回るというシステム、完全に中央に依存しないと動けないシステムになっている。となると、自治どころじゃなくて、中央から釘がさされるような番組は地方でも作れない。メディアの垂直統合図式も、通信の垂直統合図式も、エネルギーの垂直統合図式も全部変えないとならないわけです。

 福島
 日本社会紋問題点を非常にわかりやすく語ってくださいましたが、これからの原発からの離脱は、宮台さんのおっしゃる原発社会からの離脱と、両方が進まないと、ニワトリ-タマゴの関係ですからね。

 宮台
 原発をやめられる社会を作れば、原発に限らず、とてもいい社会になるということなんです。

 福島
 先日、ドイツの緑の党のもと環境大臣トリティーンさんが来て、二日間にわたって話をしたのですが、さっき宮台さんがおっしゃったことで、なんでドイツが原発を停止するかというと、別の方が言っていましたが、危ないからというよりもやはり放射性廃棄物の問題、管理ができないということで、日本でもいままさに福島原発事故が起きて危険ということはありますが、放射性廃棄物の問題ももっとみなで共有しないとだめですね。

 宮台
 そうですね。世界中の原発で日本の原発だけが異常なのは、使用済み核燃料が核燃料プールの水の中に漬けられて保管されている状態がおかしくて、他はどうしているかというと、乾式貯蔵と言って、もっと安全な、再処理を前提としない保管システムでこの技術の特許を実は飯田さんが開発して作られているという意外な面もあるのですが、福島原発の近くにも乾式貯蔵のシステムが実はあるのですが、全部これをしなければおかしいんですね。再処理の可能性は今後も実はないんですね。

 福島
 日本の社会で不思議なのは、辺野古に基地を作るって実はできないがストップしない。もんじゅも実はナトリウム事故を起こして14年動かず、まともな定量のワット数も出さずという状況にもかかわらず、もんじゅ廃炉とできない、六ヶ所の核燃料再処理サイクルも無理、と、いっぱいこけてるんですが、それを理性的な判断で止めることができないのが、政治の欠陥ですね。

 宮台
 それは行政官僚制の欠陥で、経産省なら経産省の内部で、先輩のやった政策が間違っていると言ってはいけないし、自分達の相互扶助、次官レースに落ちた人がどんどん外に出る中で、どうやって暮らすんだという問題もあるので、天下り先の確保という形で相互扶助的に自分達の将来の生活を支えていくんだという長い流れがある。ほんとは経産省や、日本的な行政官僚の、どのみちだめだとわかっているのになんでやるのかというと、簡単なことで自分や家族の生活を守るためなんです。だから国家公務員法を改正し、各省庁設置法とか内閣法の改編も必要で、公務員の扱い方も変えないと、経産省を批判しているだけではだめなんです。同じような行政官僚の振る舞いは、日本の場合、どこにでもあるのですから。

 福島
 そうですね。菅総理が再稼働と言っているのは全くだめだと思いますが、一点だけ、浜岡を止める、あれだけは、今までの日本の行政官僚では起きなかったことなんです。だから、理性的な判断と合理的な思考できちっと原発から訣別していくことを、政治の意思決定としてやらなきゃ。今日はほんとうにどうもありがとうございます。

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