潜水服は蝶の夢を見る
2008 / 03 / 24 ( Mon ) 3月24日(月)
潜水服は蝶の夢を見る 監督 ジュリアン・シュナベール、原作 ジャン=ドミニク・ボービー 主演 マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリ=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシエ、マックス・フォン・シドー 本当に見たかった映画。 40代のジャン=ドミニク・ボビー(以下ボビーとする)は突然倒れてしまう。 それまで、ELLE誌の編集長として、人生を謳歌していたのに、突然倒れてしまう。 映画は、冒頭、徹頭徹尾ボビーの視点から描かれる。ボビーの目をのぞき込む人々。 どうもここは病院らしい。自分はしゃべっているのに、どうも聞こえないようだ。 体が動かない。 3週間の昏睡状態から目がさめたのだ。医者は言う。ロックト・イン・シンドロームと。 全く動けず、無言であるが、意識は鮮明であり、眼球運動は保たれている状態になる。 動くのは左目だけである。 一番の原因は、脳梗塞と言われている。 彼には、支えてくれる人たちがいる。言語療法士アンリエットは、ボビーが左目はまばたきできることから、はいはまばたき一回、いいえはまばたき2回ということを考える。 そして、頻度の多いアルファベットを読み上げ、その単語にくるとボビーはまばたきをする。声を出すことができず、また、指をさしたりできないために、この方法で、コミュニケーションをとっていく。 「死にたい」というボビー。 しかし、ボビーは、まわりの献身的な協力で少しずつ変わっていく。 事実婚だったと思われる妻は、3人の子どもを連れてやってくる。 海辺で子どもたちとたたずみ、子どもたちは遊ぶ。 高齢になっていて、外出がままならない父は、病室に設置された電話に電話をくれる。ボビーは、耳は聞こえるので、まわりの人の介助があれば、電話をかけてくれた人と会話ができるのだ。 ガールフレンドから電話がくる。 つまり事実婚だった妻とは別れていて、ガールフレンドがいたのだ。 子どもたちの母親である彼女は、ボビーとガールフレンドとの間の通訳をすることになる。 数分間、席をはずしてというガールフレンド。つまり、思いのたけをボビーに話すことができる。 席をはずすかつてのパートナー。 「会いに行ったけれど、怖くなって駅から帰ったの」というガールフレンド。涙声になっている。 かつてのパートナーが戻ってくる。 ボビーは、やさしい顔でまばたきをする。 「毎日待っているよ。」伝えてがちゃんと電話を切るかつてのパートナー。 うーん。日本でこんな感じにできるだろうか。 離婚した夫に身寄りがないために、ガンになった元夫の看病を元夫が亡くなるまでしたという話を聞いたことがある。「すごいね。」と言ったら、「だって、彼は面倒見てあげれる人がいないんだもの。」というのが答えだった。かつて夫婦で、やっぱり気心はしれているし、恋愛はなくなっていても愛情はあるという感じだろうか。 こういうとき、ガールフレンドは、遠慮するような気もするが、面倒をみている元妻に対して、はっきりシンプルに、「数分間席をはずしてちょうだい。」と言うのにも驚いた。元妻は、席をはずす。 そして、ボビーは、「毎日待っているよ。」と優しい顔で言うのである。 彼は、毎日待っているのだ。 それを元妻が通訳するのだから。 日本のシュチュエーションだと、なんかドロドロになりそうだけれど、3人がそれぞれはっきり自分の思っていることを言うのである。 潜水服を着ているように、体は動けなくても心は蝶のように自由であるというメッセージが静かに強く伝わってくる。 かわいそうな病人ではない。 頭は実に明晰なので、テレビのサッカーの試合を消してしまう病院の職員に対して、心のなかで、悪態をつく。 二十万回ものまばたきを繰り返して、本を作ろうとする素晴らしさ。 世界中をとびまわってもちっとも自由ではない人もいるだろうし、体は動かなくても魂はとてつもなく自由ということもある。むしろいろんなことをそぎ落として、魂は、豊かに、静かに、自由になっていくのかもしれない。 免疫学者で、リハビリを形式的に打ち切り厚生労働省の政策に怒り運動をしていらっしゃる多田富雄さんのご自宅に伺ったことがある。 脳梗塞にかかられたのだが、話せるのと、キーボードを打ち、音声が出て、会話をすることができた。楽しい、有意義な、触発される会話と出会いだった。 多田さんは、たくさん本も出しておられる。 また、ネルソン・マンデラのことも思った。先日、「マンデラの名もなき看守」の映画の監督と、雑誌ブルータスの取材で対談をした。 ネルソン・マンデラは、27年間獄中にあったのである。 刑務所から、一歩も出ることができず、刑務所から出れるかどうかもわからないなかで、マンデラは、希望も人間性も全く失わなかったのである。マンデラは、黒人政府の初代大統領になり、南アフリカをまとめていく。部族間の抗争や復讐をさせないで、まとめていくのである。 アウンサンスーチーさんもそうだが、拘束されて、身体的な自由は全くなくても、魂は自由であるということを強く思う。 考えてみれば、人は皮膚を体にまとい、魂は体のなかにある。 人は、一生、体という牢獄に閉じこめられているとも言える。 潜水服に閉じこめられているのである。 しかし、どんな人も、すべての人の心、魂は自由であり、それを拘束したりできないのである。 潜水服に閉じこめられたわたしたちは、孤独である。 しかし、魂は自由であり、潜水服を着たまま、人と交流し、この映画のなかのように、多くの人のサポートや愛を受けて生きていく。サポートや愛をかわしながら、生きていく。 人間の自由ということを根源的に描いた映画である。 そして、愛と希望も描いている。 一見不自由に見えても、心は誰からも何ものからも制約されず、まことに自由に羽ばたくのである。 これこそ人間存在そのものだと思う。 根本的なことが、はっきりしていたら、あとは何も恐くない。 人は、病気だろうが、高齢だろうが、いろいろ不自由な人生だろうが、記憶と想像力があり、また、魂の自由は、無限大である。 魂の自由をとにかく大事にしろよと言っている映画のように思える。 海辺の風景が、心にしみる。 また、お見舞いにきたり、看病する人たちの人柄やプロ意識に感動をする。 自由、愛、希望を描いている映画である。 |
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